saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章「第二の質問」02

……「第二の質問」02

 (…だから 師には語れないことが

      たくさんある )

 

あなたに対して 行なうことならできるが、語ることはできない。

その行ないが イニシエーションだ。

師は 実際に あなたの中に入る ーー あなたの身体の中に、師は あなたを掃除し、あなたを変える。

唯一 要求されることは、あなたの全面的な信頼だ。

信頼がなければ 入口がなく、師は 中に入って行けない。 扉が 閉じている。

 

  あなたはいつも 自分を守っている。

生は 競争だ、生存のための 競争だ。

この競争のせいで あなたは閉じてしまう。

あなたは 閉じている、恐れている。

無防備になるのを 恐れている。

誰かが 入ってくるかもしれないし、誰かが 自分の中で なにかするかもしれない。

だから 縮み込んでしまう。

閉じてしまう。

後ろに 隠れ、 いつも守っている。

 

  イニシエーションで 必要なのは、この防御を なくすこと、この防御の鎧(よろい)を 投げ捨てることだ。

無防御になれば、師は 中に入ることができる。

  それは ちょうど深い愛の行為に 似ている。

たとえば、女性を強姦することなら できるが、弟子を 強姦することはできない。

女性なら強姦できる というのは、それが肉体的な強姦だからだ。

肉体なら 承諾なしに 強姦なり侵入できる ーー 女性の意志に関わりなく強姦できる。

それは 強制だ。

肉体は物質だから、なにかを強制することができる。

 

  ちょうどこれに似たことが イニシエーションでも起こる。

師は あなたの精神に入る。

肉体ではない。

だから受け容れの 準備ができていないかぎり、入ることは不可能だ。

弟子を強姦することはできない。

なぜなら これは、肉体に関わることではなく、精神の問題だからだ。

精神に強制的に入ることは できない。

精神に対して 暴力は不可能だ。

 

  ちょうどそれは 恋をしている女性が 深いゆだねの中で待ち望み、受け容れるのと同じだ。

弟子が 開放的(オープン)であって始めて、師は 中に入り、働きかけることができる。

すると 何世紀分もの仕事が たちまちにできる。

何生かかっても できないようなことが、一瞬のうちに できる。

だが そのためには、防御せず、あくまでも信頼することが必要だ。

なぜなら、いったい 自分の内側で なにが起こるのか、師が なにをするのか、弟子には わからないからだ。

 

  女にとって 性的行為は 未知への旅だ。

だから 恐がる。

相手の男を 愛していないかぎり、また、 苦しむ覚悟や、子供という重荷を宿す覚悟や、九ヶ月のあいだ子供を宿し、一生 それに つき合っていく覚悟がないかぎり、その男を 深く愛していないかぎり、女は 自分の肉体に 男を入れない。

それは 自分の肉体のみならず、一生に関わることだ。

深く愛していればこそ、自ら苦しみ、犠牲にもなれる。

そして、深い愛の中で 犠牲となり苦しむことは、至福に 満ちている。

 

  しかし弟子の場合、問題は もっと深い。

それは 単に 肉体的誕生、つまり子供の誕生に関する問題ではない。

それは 彼の 再誕生だ。

彼自身が 生まれ変わるのだ。

ある意味で 彼は死に、別の意味で 彼は生まれる。

それが 可能になるのは、師が 彼の中に入って初めてだ。

でも師は それを強制できない。

強制は 不可能だ。

弟子が 招くしかない。

 

  それが 問題だ ーー 精神的な師弟関係における 非常に重大な問題だ。

  弟子は いつも自分を守ろうとする……自分の周囲に どんどん鎧を作り出す。

師に対する 弟子のふるまい方は、世間一般に対する ふるまい方と 同じだ。

同じ防御機構が 働いている。

そして いたずらに 時間が浪費され、エネルギーが浪費される。

今 この瞬間にも 起こりうることが、ずっと延期されてしまう。

しかしそれは 自然なことだ。

往々にして、偉大な師の もとでさえ、弟子たちは 機会を逃している。

 

  アーナンダ(阿難)は 仏弟子の中でも 偉大なひとりであり、また もっとも そば近くにいた人間だった。

しかしブッダの在世中には、解脱を達成できなかった。

 

 

…(02)おわり (03)へ つづく

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社