saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章「質疑応答 - 第三の質問」

「第三の質問」

『アナハット・ナーダ、 音なき音、 とは、音の 一種なのですか、それとも全面的な無音なのですか。 また全面的な遍音が、どうして無音と同じなのですか 』

 

 

  アナハット・ナーダは 音の一種ではない。

それは 無音だ。

でも その無音は聞こえる。

それを 表現するのは 難しい。

なぜなら、「どうして無音が 聞こえるのか」という論理的な疑問が生じるからだ。

 

  では説明してみよう。

私が この椅子に座っている。

もし私が 椅子から去ったら、はたして あなたは この椅子の中に 私の不在を見るだろうか。

私がここに座っているのを 見ていない人には、その不在が 見えない。

ただ 椅子だけが見える。

だが、少し前に 私はここに座っていた。

そしてあなたは その姿を見ている。

その場合、私が 去った後に この椅子を見れば、ふたつのものが 見えるだろう。

椅子、そして 私の不在だ。

だが その不在が見えるのは、私のことを 見た人、そしてまた、私が そこにいたことを おぼえている人だけだ。

 

  私たちは 音を聞いている。

私たちは 音しか知らない。

だから、「無音」つまり アナハット・ナーダが 現れるときには、 一切の 音の消失が、不在が 感じられる。

だからこそ アナハット・ナーダ と 呼ばれるのだ。

それは またナーダとも 呼ばれる ーー ナーダとは 音を意味する。

しかし「アナハット」が その音の質を 変化させる。

「アナハット」とは「創られていない」という意味だ。

だから それは「創られていない音」だ。

 

  音というのは みな創られた音だ。

聞いたことのある音は すべて、創られたものだ。

創られたものは 死ぬ。

私が 手をたたくと、音が創られる。

その音は 以前には なかったし、今は もうない。

それは 創られ、 そして死んだ。

創られた音は、「アハット・ナーダ」と呼ばれる。

創られていない音は「アナハット・ナーダ」、つまり「常にある音」と 呼ばれる。

常にある音 とは なにか。

真の意味において それは音ではない。

それを 音と呼ぶのは、「不在」が 聞こえるからだ。

 

  もし 駅の近くに住んでいて、ある日、鉄道の組合がストに入った とする。

すると 誰にも聞こえないようなものが聞こえる。

汽車が 到着し、発車し、動いている、その不在が 聞こえる。

 

  私は かつて、月に 少なくとも三週間は 旅をしていた。

最初のうち 汽車の中で眠るのは ひどく難しかったが、そのうち 家で眠るのが難しくなった。

汽車の中以外で 眠るときには、汽車の音が しなくて 物足りないのだ。

いつも 家に帰ってくると、汽車の音の 不在を感じ、それが 物足りなくてしかたがなかった。

 

  私たちは 音に慣れてしまっている。

いつでも 音でいっぱいだ。

私たちの頭の中は つねに、音また音だ。

だが、マインドが 消えたとき……上へいくか下へいくか、超越するか 転落するかして、マインドが消えたとき……あなたが 音の世界に いないとき、その不在が 聞こえる。

その不在こそが無音だ。

 

  私たちは それを、アナハット・ナーダと 呼んできた。

それは 聞こえる。

だから、私たちは それを「ナーダ」、音と呼ぶ。

でも 本当は 音でないから、私たちは それを「アナハット」、つまり「創られていない」と  呼ぶ。

「創られていない音」というのは 矛盾している。

音は 創られたものだ。

だから「創られていない」というのは 矛盾する。

およそ 生の深い体験はすべて、矛盾した用語で表現される。

 

  たとえば、 エックハルトや ヤーコブ・ベーメのような 師に尋ねてみても、あるいは、慧海(えかい) や 黄檗(おうばく)や 達磨(だるま)のような禅師たちや、ナーガルジュナに 尋ねてみても、あるいは ヴェーダーンタウパニシャッドの場合でも、より深い体験が 語られるときには、必ず 相矛盾した言葉が使われる。

ヴェーダは 神について「彼は在り、そして無(な)い」と 言う。

「彼は在り、そして無い」、これ以上に 無神論的な表現を 見い出すのは 不可能だ。

神は 遥(はる)か彼方に在り、そして すぐそばに在る。

神は遥か彼方に在り、そしてまたすぐそばに在る。

なぜ このような矛盾した言い方を するのか。

ウパニシャッドは言う、

「あなたには彼が見えない。 しかし彼を見ないかぎり、あなたは なにも見えない」。

これは いったいどういう言語か。

 

「真理は語れない」と 老子は言う、だが 彼はそれを語っている。

この言葉も また語られたものだ。

彼は 言う、

「真理は語れない。 もし語られたら、それは 真実ではなくなる」。

だがなお 彼は本を書き、真理について 語る。

これは 矛盾している。

 

  学生が ひとり、偉大な 老聖者のところへ やって来た。

学生は 言った、

「先生、もしお許しくださるなら、私は自分のことを 話したいと思います。 私は無神論者になりました。 もう神を 信じていません」

そこで老聖者は尋ねた、

「何日くらい聖典を学んだ。 何日くらいだ」。

そこで その男、その探求者、 学生は言った、

「ほとんど二十年間、ヴェーダを、聖典を学んできました」。

そこで 老人はため息をついて 言った、

「たった二十年……。 それなのに『自分は無神論者になった』などと言うとは、たいした神経だ」

 

  学生は 当惑した。

この老人は なにを言っているのだろう。

そこで 言った、

「いったい どういうことですか。 なにをおっしゃっているのですか。 おかげで ここに来たとき以上に 混乱してしまいました」。

老人は言った、

「もっと ヴェーダを学ぶのだ。 初めのうち 人は『神はいる』と 言う。 だが最後になって初めて『神はいない』と言う。 無神論者になるためには、もっと有神論の中を旅することだ。 初めに神はいる。 最後に神はいない。 急いではいけない」。

学生は ますます混乱した。

「神はいる。そして神はいない」とは、知る者たちによって述べられたものだ。

「神はいる」とは、知らぬ者たちによって述べられ、また、「神はいない」もまた、知らぬ者たちによって述べられる。

知る者は、その両方を 同時に述べる ーー「神はいる、 そして神はいない」

 

  「アナハット・ナーダ」とは 矛盾した言葉だ。

だが、たいへんな考察、深い考察をもって使われている。

意味深い言葉だ。 その意味は、

「この現象は音として 感じられるが、それは 音ではない」ということだ。

それが 音と感じられるのは、あなたが 音しか感じたことがないからだ。

あなたには それ以外の言語がわからない。

音の言語しか わからない。

だから 音として 聞こえる。

だがそれは 静寂だ。   音ではない。

 

  質問者は さらに こう言う、

「また全面的な遍音が どうして無音と同じなのでしょうか」。

つねに 同じだ。

零と 絶対は 同じものを意味する !  

 

  たとえば 私のところに、完全に空(から)の壺と、完全に いっぱいの壺があるとする。

そのどちらも 完全だ。

一方は 完全に空で、もう一方は 完全にいっぱいだ。

だが どちらも完全であり、両方ともに完璧だ。

もし 壺が半分いっぱいだったら、それは  半分 いっぱいで 半分 空だ。

それを半分空だと言ってもいいし、半分いっぱいだと言ってもいい。

だが、完全に空であっても、完全にいっぱいであっても、両方に共通なことが ひとつだけある ーー 完全性だ !  

 

  無音は 完全だ。

さらに無音にするわけには いかない。

そこが 肝心だ。

それは 完全であって、もう なにもできない。

その地点から先に 進むことはできない。

また、もし音が全面的だったら、そこには なにも付け加えられない。

それもまた ひとつの限界だ。

それを 超えていくことはできない。

これこそが 共通点であり、またその意味だ。

 

  それは無音とも呼べる。

どんな音も 聞こえず、一切は 不在となった、もはや なにも取り去れない。

完全だ。

あるいは、それは完全な音、充溢した音、絶対的な音とも呼べる。

もはや なにも付け加えられない。

どちらの場合においても、その指標となるものは、完璧性、絶対性だ。

 

  それは マインドしだいだ。

マインドには 二種類あり、表現には二種類ある。

たとえば、ブッダに対して こう尋ねたとする ーー「深い瞑想の中では なにが起こるか。 サマーディを達成したときにはなにが起こるか」。

すると ブッダは言うだろう、

「もはやドゥッカは ない。 もはや苦はない」。

彼は「至福がある」とは 言わない。

ただ こう言うだけだ、「苦はない。無苦だ」。

もし シャンカラに 尋ねたら、苦痛については 語らないだろう。

ただ こう言うだけだ、「至福がある、完全な至福が」

 

  いづれも同じ体験を 表現している。

「苦はない」というブッダの言葉は、この世界についてのことだ。

彼は 言う、

「私の知っていた あらゆる苦はない。 だが、あるものに関しては、あなたの言語では とても表現できない」。

一方、シャンカラは 言う、

「至福がある、絶対的な至福が」。

彼は この世界とその苦について語らない。

彼は あなたの世界について語らない。

彼が 語るのは、その体験自体だ。

彼は 積極的(ポジティブ)だ。

ブッダは 消極的(ネガティブ)だ。

 

  しかし ふたりとも同じ 月を差し示している。

指は 別々だが、その指が 指し示すものは 同じだ。

 

第八章-質疑応答 おわり……

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社