saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第二章「第二の質問」(03)

第二の質問 (03)

 

(… ふたつ目。

生は未知で 予見不可能なものだが、あなたのマインドは たいへん狭い ーー いつも既知の中、予見可能な中で 生きようとする。

マインドは いつも未知を 恐れる。

それには 理由がある )

マインドは 既知によって構成されている。

自分の 知っていること、 体験したこと、 学んだことによって 構成されている。

そこに 未知はない。

マインドは いつも未知を恐れている。

未知は マインドを脅かす。

だから マインドは未知に対して 閉ざされている。

マインドは 慣例の中で 生きている、様式の中で 生きている。

マインドは 一定の軌道の上、既知の軌道の上を動く。

ちょうど 蓄音機のレコードのように 動き続け、そして 未知へと入るのを 恐れている。

 

  生は つねに未知へと入っている。

だから あなたは恐れる。

あなたが生に 望むのは、マインドに従って、 既知に従って 進むことだ。

だが生は それに従わない。

生は つねに未知へと向かう。

だからこそ 私たちは 生を恐れるのだ。

そして 機会あるたびに、生を 殺そう、生を 固定化しようとする。

生は 流れだ。

それなのに 私たちは生を固定化しようとする。

固定化すれば 予見が可能となる。

 

  もし 誰かを愛したら、すぐさまマインドは「どうやって結婚するか」と考え始める。

なぜなら結婚は物事を固定するからだ。

 

愛は 流れだ。

愛は 予見できない。

それが どこに通じているのか 誰も知らないし、そもそもどこかに通じているのかどうかも わからない。

愛は 流れに浮かんでいる。

その流れが どこに行くのかはわからない。

次の日、次の瞬間には、もう なくなってしまうかもしれない。

 

  次の瞬間について確実なことは なにも言えない。

 

マインドは 確実性を 求める、ところが生では なにも確かではない。

確実性を求めるからこそ、マインドは 愛に敵対する。

マインドは結婚に味方する。

なぜなら結婚は 物事を 固定するからだ。

物事を固定してしまうと、流れは 破壊される。

もはや 水は流れていない。

氷に なってしまった。

今や 手もとに あるものは 死んだもの、予見できるものだ。

予見可能なのは 死んだものだけだ。

生きていればいるほど 予見不可能となる。

生の行方は 誰にも わからない。

 

  だから私たちは 生を望まない。

死んだものを 望む。

それで いつも 物を所有するのだ。

人間と ともに生きるのは難しい、だが物と ともに生きるのは やさしい。

だから 私たちは 次から次へと物を所有し続ける。

 

人間と ともに生きるのは難しい。

そして 人間と ともに生きる必要がでてくると、その人間を 物に 作り変えようとする。

人間には 我慢できない。

 

  妻とは 物だ。

夫とは 物だ。 人間ではない。

固定化した 物体だ。

夫が 家に帰って来ると、妻は ちゃんと待っている。

それは 予見できる。

もし 愛を交わしたかったら、いくらでも交わせる。

妻は いつでも意のままだ。

もはや 妻は物体だ。

だから こんなふうには言えない、「だめ。 今日はそういう気分じゃない」。

妻たるもの そんなことは言ってはいけない

「そういう気分じゃない」だって ? 

妻に 気分なんかありはしない。

妻とは 固定的な機関だ、施設だ。

施設なら 信頼できる。

生は 信頼できない。

こうして 私たちは 人間を物に変えてしまう。

 

  人間関係を 見てごらん。

最初、それは「我」と「汝」という関係だ。

だが 遅かれ早かれそれは、「我」と「それ」という関係に なってしまう。

「汝」は 消え失せ、私たちは そこに「物」を 期待する。

私たちは言う、「これをしなさい。 これは妻の義務であり、それは夫の義務だ。 さあしなさい !」。

もはや するほかない。

それは 義務だ。

機械的に 遂行するのみだ。

「私には できない」などと言ってはいけない

 

  この固定性こそが 生の恐怖だ。

生は 流れだ、生については なにも予見できない。

今 この瞬間、私は あなたを愛している、でも次の瞬間には その愛も消え去るかもしれない。

一瞬前には 存在していなかったが、今の瞬間には 存在している。

そして、それが存在するのは 私のせいではない。

それは ただ起こった。強制的に 出現させたわけではない。

ただ 起こった。

そして 起こったことは、いつ なくなるか わからない。

それは どうしようもないことだ。

次の瞬間には 消え失せるかもしれない。

次の瞬間について確実なことは なにも言えない。

 

  でもマインドは 確実性を求める、それで 愛を結婚へと変えてしまう。

すると、生きたものが 死んだものとなる。

そうすれば あなたはそれを所有できる。

あなたは それを信頼できる……次の日にも愛はそこにある。

これこそが 不条理なところだ ーー 所有するために、その当のものを殺してしまう。

もはや それを楽しむことはできない。

もはや それは存在していない。

死んでしまった。

 

  妻を 所有することによって、彼女は 殺されてしまった。

 

恋人は 妻となった。

ところがあなたは、妻に対して 恋人のような ふるまいを期待する。

それは 理不尽というものだ。

妻が恋人のようにふるまうのは 不可能だ。

恋人は 生きていた。 妻は 死んでいる。

恋人というのは ひとつの出来事だ。

妻は ひとつの機関だ。

そこで、妻が恋人のように ふるまわないと、あなたは いつもこう言う、「君はもう僕を愛していないのか。 昔は愛していたのに」。

だが彼女は もはや同じ人間ではない。

もはや人間ですらない。

物体だ。

所有するために 彼女を殺しておいて、今度は 彼女に生命を要求するわけだ。

そこから 悲劇のすべてが生まれる。

 

  生は流れであるからこそ、私たちは 生を恐れる。

マインドは 確実性を 求める。

もし真に 生き生きとしていたかったら、不確実性を受け容れることだ。

確実性というものは 存在しないし、それを創り出す術(すべ)もない !  確実性への道は ただひとつ、生きないことだ。

そうすれば 確実だ。

だから死んだ人間は、まったくもって確実だ。

生きている人間は 不確実だ。

不確実性こそ まさに生の中核だ。

ところが マインドは確実性を求める。

 

  三つ目。

生には、〈存在〉には、根本的な 二元性がある。

〈存在〉は 二元性として 存在する。

 

第二の質問…(03)おわり  (04)へ つづく

 

 

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社