saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第13章「在ることを通して越えていく」(07)

(07)

(…論理は 定まった実体に 対して 成り立つ。

生は 決して 定まったものではない )

 

あなたは言う、「これが 神だ」と。

が、 神が 悪魔に変わることだって あり得る。

あなたが ラベルを 張ることはできない。

現実においては、ラベルを張るのは 無駄だ。

なぜなら 物事に ラベルを張っている間も それは 変わりつつあるからだ。

そして、その 張っている時間は 

その物事が 変化するのには 充分な時間だ。

が、論理、 理屈、 マインドは 

ラベルを張らずには成り立たない。

 

我々は、どうして愛が 憎しみになるのか理解できる。

が、もっと固定したカテゴリーでさえ、変わり得る。

あなたは 言う、「この人は男、男性だ、あの人は女、 女性だ」と。

またもや、これらはカテゴリー、ラベルだ。

現実とは違う。

 

私は言う、あなたは 朝には男であり、夕方には 女である と。

それは あなた次第だ。

あなたが 女性の気分のときも あれば 男性である気分のときも ある。

 

そして今、現代心理学は、人間は 両性だ と 言っている。

論理は 決して それを信じない。

誰も 男ではない、 誰も 女ではない −−− 誰もが 両性だ。

その違いは、ただの 度合いの 違いにすぎない。

それは 決して質の違いではなく、量の 違いだ。

そして、その度合いは 変わり続けている。

 

事実にラベルは 張れない。

何ひとつ ラベルを張ることなど できない。

だが、我々は ラベルを張らなければ ならない。

そこには 必然性が ある。

 

マインドは ラベルを 張ることなしに 機能できない。

ラベルを張ることなくして、マインドは 働けない。

 

そこで、マインドは 物事に ラベルを張り続ける。

この ラベルの張られた世界が “これ” として 知られている −−− 

それは、ラベルを張ることで作り出された世界だ。

 

それらのラベルを 越えたところに存在する 世界が “それ” だ −−− ラベルのない、定義のない、地図に 載っていない 世界。

 

あなた方は 名前を 持っている −−− それは ラベルだ。

あなたの名前は “これ” に 属する。

 

あなたは男であり、あるいは女である、それは ラベルだ。

男であること、女であることは “これ” に 属する。

 

もし あなたが、自分のラベルを 張ることで お終いなら、そこに “それ” は ない。

 

でも、自分はラベルを越えて存在している と 感じるなら

自分のラベルは ただ表面だけのことだ と 感じるなら

ラベルなしの、触れられていないままの センターが 存在する ということだ。

 

 

 

(07)終わり(08)へ 続く