saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第13章「在ることを通して越えていく」(06)

(06)

(…たとえ 円の周りを ぐるぐる回っていても あなたは 決して 中心に到達しないだろう )

 

もしあなたが ゆっくり歩いていれば、こう考えるかもしれない。

「俺は ゆっくり歩いているから、目的のポイントに到達しないんだ」と。

あなたは 走ることもできる。

それでも 目的のポイントには 到達しないだろう。

あなたは いくらでも速く いくことができる。

だが、速さは 関係ない −−− 目的のポイントには 到達しないだろう。

速くいけば いくほど、あなたは ぼーっとしてくる。

が、あなたは 到達しない。

センターとは、円の上に あるものでは ないからだ。

それは 円の上ではなく、円の中にある。

あなたは 円を完全に 離れなければならない。

周辺から 中心へと、落ちていかねばならない。

論理的なカテゴリーは 円環だ。

論理を 通しては、決して新しい真実に到達しない −−− 決して ! 

その論理の 前提として暗示されているものは、全て明らかになる。

だが、決して 真実に 到達することはない。

論理を通して 新しい経験に至ることは 決してない。

論理とは円環だ。

結論はいつもそこにある、それは はっきりしている。

それは 隠れていた −−− それが 違いだ。

しかし、論理を通して 新しい現象を解明することは 決してない。

論理を通して、未知なるものに至ることは 決してない。

神秘は、論理を通しては 決して到達されない。

論理は 神秘に対抗するからだ。

論理は区分し、論理は はっきりとした区分、確たる区分の上に 成り立っている −−− そして事実は 流動的だ。

 

たとえば あなたが、ある人のことを とても親切な人だ と言う。

だが、それは 一つの話だ。

そして、そういう話をしているうちに、親切だった 彼が、もう親切ではなくなる。

彼は変わってしまったのかもしれない。

あなたは 言う、「私はある人を 愛している」と。

それは 一つの話だ。

が、まさに 今、話をしている瞬間にも あなたの 愛は 消え去ってしまうかもしれない。

この瞬間、あなたは 愛している。

そして 次の瞬間、あなたは 怒っている。

この瞬間、あなたは 優しい。

そして 次の瞬間、あなたは残酷になる。

辞書の中では、優しさは 決して残酷さに ならない −−− 決して ! 

が、現実には、それは どんどん変わっていく。

優しさが 残酷さになり、残酷さが 優しさになり、愛が 憎しみになり、憎しみが愛になる。

現実には、物事は 変わり続ける。

辞書の中では 安定している。

が、現実は ダイナミックに 動いている。 固定は できない。

あなたが「ここに在れ !」と 言うことはできない。

 

それに 物事ばかりが 変わり続けるわけではない −−− それらは まさに矛盾そのものに 触れ続ける。

まさに 極端へ、もう一方の 極へと 動いていく。

 

愛は 憎しみに なる。 それは単なる変化ではない −−− 

それは 正反対に 変わる。

正反対の ものが 存在に入ってきた。

友達は 敵になる。 が、「友」という言葉は決して「敵」という言葉には ならない。

どうして そうなるのだろう ? 

言葉 というのは 決まっている。

論理は 定まった実体に 対して 成り立つ。

生は 決して 定まったものではない。

 

 

(06)終わり(07)へ 続く