saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第二章「第二の質問」04

 

「第二の質問」(04)

( … 三つ目。

生には、〈存在〉には、根本的な 二元性がある。

〈存在〉は 二元性として 存在する )

ところが、マインドは 一方を選び、もう一方を否定しようとする。

たとえば、幸福(ハッピー)に なりたい、快楽が欲しい、でも苦痛は いらない。

ところが 苦痛は 快楽の一部であり、快楽の裏面だ。

コインのようなものだ。

一方の面は 快楽で、他方の面は苦痛だ。

いくら快楽を 求めても、実のところは、快楽を 求めれば求めるほど、苦痛が それに伴う。

そして快楽に敏感に なればなるほど、苦痛にも敏感になる。

 

  だから 快楽を求める人は、苦痛を受け容れる覚悟が必要だ。

それは ちょうど山と谷のようなものだ。

もし 峰や 山だけを求めて、谷はいらなかったら、いったい 谷はどうなるだろう。

また 谷なしで、峰が どうして存在できるだろう。

谷がなかったら 峰は 存在できない。

もし 峰を愛するなら、谷も愛することだ。

どちらも 運命の 一部だ。

 

  マインドは 一方を求め、他方を 否定する。

ところが 他方は その一部だ。

マインドは 言う、「生は善い。 死は悪い」。

だが 死は その一部だ、谷 部分だ。

そして 生は 峰 部分だ。

死なしに生は存在できない。

生は 死があるからこそ存在する。

もし 死が消え去ったら、生も消え去る。

だがマインドは言う、「私は 生だけが欲しい。 死は いらない」。

こうしてマインドは、どこにも存在しない 夢の世界へと向かう。

そして すべてのものと 戦い始める。

なぜなら生の中では、すべては その反対物と関わっているからだ。

その反対物を拒否すれば、そこに戦いが始まる。

 

  生の二元性を理解する人は、両方を 受け容れる。

彼は 死を受け容れるが、それは、生に対立するものとしてではなく、その一部として、谷 部分としてだ。

彼は 夜を 受け容れる ーー 昼の谷部分として……。

ある瞬間に あなたは至福を感じ、次の瞬間には あなたは悲しんでいる。

だがあなたは 悲しみの瞬間を 受け容れたくない ーー それは 谷 部分だ。

至福の 峰 部分が 高ければ高いほど、谷は深い。

峰が高いほど 谷は深い。

だから 高きに進めば進むほど、低きへ落ちる。

それは ちょうど波と同じだ。

高く せり上がれば、やがて 谷部分が やってくる。

 

  理解する ということは、この事実を認識する ということだ。

たんに認識するのみならず、この事実を 深く受け容れることだ。

この事実から 逃れるわけにはいかない。

虚構を創ることは 可能だ ーー 私たちは何世紀にもわたって虚構を 創ってきた。

たとえば 下方のどこかに地獄を置き、上方のどこかに 天国を置いた。

私たちは このふたつの間に、絶対的な隔たりを設けた。

だが、それは 戯言(ナンセンス)だ。

なぜなら地獄は 天国の谷部分だからだ。

地獄は天国と ともに存在する。

別々には 存在できない。

 

  この理解によって、あなたは肯定的になれる。

そうすれば すべてを 受け容れることができる。

「肯定的」という言葉で 私の意味することは、すべてを受け容れる ということだ。

なぜなら あなたは、〈存在〉を分割するのは不可能だと知っているからだ。

 

  息を吸えば、また すぐに吐き出す必要がある。

私は 息を吸い、そして息を吐く。

もし息を 吸うばかりで 吐き出さなかったら、私は 死んでしまう。

また、吐き出すばかりで 吸い込まなかったら、やはり 死んでしまう。

吸気と 呼気とは ひとつの作用、ひとつの円環の一部だ。

吐き出すからこそ 吸い込むことができる。

両者は ひとつであって、分割できない。

 

  非分割、これこそが 解放された人間だ。

それが起こるのは、この理解が現れたときだ。

〈存在〉の 二元性を受け容れる人間のことを、私は、解脱した人間、開悟(エンライト)した人間と呼ぶ。

彼は 肯定的になった。

なにが起ころうとも 受け容れる。

もはや どんな期待もない。

もはや〈存在〉への どんな要求もない。

ただ下流に向かって流れていくのみだ。

 

 

第二章「第二の質問」(04) おわり……。

 

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社