(03)
( 知る ことは 流れを意味する −−− 川のような存在。
あなたは知っているが、知識としてではない )
なにか 片づいてしまったもの、完結したもの、あなたの 手の中で死んでいるもの と してではない。
あなたは 一種の オープニングとして知っている −−−
常に、より偉大なる ものに対し開いている、絶えず 海に対し開いているもの、絶えず超越したものに 開いているものとして知っているのだ。
知ること は、常なるオープニングだ。
そして 知識は 閉ざされた現象だ。
だから、知識は死んでいる と 感じた人たちは、その体験を「神」とは 言わなかった。
彼らは 名前を つけなかった。
どんな名前も 知識 を 意味するからだ。
ある 一つの体験に 名前を付けた時、それは あなたが それを完全に、余すところなく知った という意味だ。
そうなれば、あなたは 円で囲むことができる。
そうなったら、一つの言葉を 与えられる。
言葉は 一種の限定だ。
だからインドの英知は、彼は “それ” だ と言う。
“それ” とは 言葉ではない −−− 一種の 示唆だ。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは どこかで、
「言葉に表せなくても 示すことができる、あるものが 存在する」と言っている。
あなたは 言葉に表すことはできない。
が、示すことは できる、示唆することは できる。
この言葉 “それ” は、一種の 示唆だ。
越えたるものを、ただ示唆している。
それは 言葉を与えない。
否定するものを 与えない。
それは、あなたが知っていることは示さない −−− あなたが 感じたことを 示している。
知識には 一種の限界が あるが、感覚に限界はない。
我々が “それ” と 言う時、それ以上に 多くを語っている。
一つには、遠く 離れている ということ。
“これ” はここ、近くにあることを 意味している。
我々は それを知っている。
それは 我々の知る範囲にある。
“それ” とは、遠く離れている という意味だ −−− 大変 遠く 離れている。
一つの意味では “それ” は遠く離れて ある。
もう一つの意味では、近すぎるほど 近くに ある −−−
が、それは あなたが どこからスタートするかによる。
我々は ここに座っている。
一番近い地点は、ちょうど あなたが座っているところ だ。
その場所と比べれば、全ての地点が
あなたから 離れている。
だが、その場所から 出かけ、世界中を旅すれば
自分自身が座っていた場所に 戻って来れる −−−
そうなると、あなたが 今 座っている地点とは 最も距離が 離れている地点 ということになる。
というように、距離は どこからスタートするかによる。
こんな話を 聞いたことがある。
ムラ・ナスルディンが、なにげなく
ただ 村の はずれに 座っていた。
すると だれか見知らぬ人が、ナスルディンが住んでいる 村への道まで、どれぐらい距離が あるのか尋ねてきた。
そこでムラは「お前さん 次第だよ」と 答えた。
その見知らぬ人は、ムラの言葉が 理解できなかった。
そこで 彼は
「『お前さん次第だ』とは、どういうことかね ? 」と 言った。
そこでムラは 言った
「もしお前さんが 今来た道を そのまま行けば、もし 来た方向のまま 行けば、村までは すごく遠い。
地球を ぐるっと 一周しなきゃならん。
お前さんは、村を ちょうど過ぎた場所にいるからさ」と。
「でも、お前さんが戻れるんなら、百八十度転換する用意があるんなら、村までは 一番近い ということさ」
というように、距離は 我々が どこにいるかに よる −−−
我々がいる まさにその地点、我々が ちょうど今ある意識の、まさに その地点次第だ。
もし我々が その要点を 見たら、その要点を 貫くことができたら、 “これ” は 遠く離れたものになり、“それ” は 最も近いものになる。
だが もし、自分達が 存在している中心、我々が 目と感覚で追っている 中心が 見えなければ、“これ” は 近くにあり、“それ” は 一番 遠くなる。
それは 我々次第だ。
だが、両方の意味で “それ” は “これ” を 超えている。
もし あなたが 内側に入っていけば、もし あなたが 自己の実存の中心に 到達すれば、再び、あなたは あなたを取り巻いている “これ” を 超越する。
そして “それ” は 達成される。
あるいは、もしあなたが 外側へ行けば、非常に長い旅、果てしない旅を せざるを得ないだろう。
そして、その旅の終わりに 初めて “それ” に 触れることができる。
だから、科学は長い旅、ひどく長い旅だ。
(03終わり(04)へ 続く