質問………
OSHO、あなたは しばしば、マインドとは 過去の体験と死んだ記憶の積み重なったものだ、と説明されます。「その生き生きとした表面の現れさえ、それ自体のものではない。 それは実存の源から供給される」と。
昨夜あなたは、マインドは人が神に捧げられる唯一のものだ、とおっしゃいました。 でも、それには捧げるだけの価値があるのですか ?
三つのポイントが 理解されねばならない。
第一に、 マインドには 二つの意味がある。
一つは 中身。 もう一つが 器だ。
私が「中身」と言うのは、思考、記憶、死んでしまった過去、その蓄積されたもの のことだ。
しかし、それは 中身だけだ。
もし 全ての中身が 放り出されたら、器が残る。
その器を、あなたは 捧げることができる。
それらの 思考、記憶、過去には 実際、価値がない。
捧げる価値のないものだ −−− だが、器には 価値がある。
マインドには 二つの意味がある。
マインドという文字が 大文字の「M」で書かれていれば、それは常に「器」のことだ。
あなたは その器を 捧げることができる。
それが『マインドが絶えず “それ” ヘと向かっていること』という この経文の意味だ −−− 器を捧げるということ。
『絶えず “それ” ヘと向かっている』とは、器の中には
今や “それ” 以外の 中身がない、という意味だ −−−
無思考、無記憶、過去がない、無欲、未来がない、無、ということだ。
今や、器としてのマインドの 中には、たったひとつの中身 −−− “それ” しかない。
それが 捧げものだ。
そして 中身のそれらは、実際死んでいる。
あなたのマインドは、それらが死んで 初めて 吸収するからだ。
たとえば あなたのマインドは、過去か未来の どちらかに 動く。
そして、マインドが過去に動く時、それは死の中を動く −−− 全てが死んでいて、何一つ 生きているものがない。
過去とは、あなたの 記憶以外に どこにも存在しない。
過去は どこにあるだろう ?
それは どこにも ない !
あなたは どこにも 過去を見つけられない。
それは あなたの 記憶の中にだけ存在する。
(01)終わり (02)ヘ 続く