saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 1」by OSHO (第9章 01)

第9章「人間は神に何を捧げられるか ?」01

『マインドが常に “それ” ヘと向かっていること、それが アルギャム −−− 捧げものだ』

 

 人間は、一体 何を神に捧げられるだろう ? 

それは、どんな 捧げものだろうか ? 

我々は、自分達が持っているものしか 捧げられない。

持っていないものを 捧げることはできない。

そして 人間は いつも、全然 自分達のものではないものを 捧げてきた。

人間は、全然 自分達のものでないものを 犠牲にしてきた。

もし 自分のものでないものを 捧げるのなら、宗教は儀式となる。

もし本当に 自分のものを 捧げるとしたら、宗教は 真正な体験となる。

実際、儀式とは、真正な宗教性からの 逃避の方法だ。

あなたは、代わりのものを 見つけられる。

だが、他の誰でもない、自分を だましているだけだ −−− どうして 自分のものでないものを 捧げられるだろう ? 

あなたは、牛を 犠牲にすることは できる。

馬を 犠牲にできるし、土地を 捧げることもできる。

しかし、何一つとして あなたのものではない。

実際、それは 宗教の名を借りた 泥棒だ。

どうして 自分のものでないものを 神に捧げられる ? 

だから、まず最初のことは、自分のものは 何か、何が自分のものなのかを 知ることだ。

あなたのものが 何かあるかね ? 

「これは私のものだ。それを神に捧げよう」と 言えるような あなたは、何かの主かね ? 

 

それは 最も難しい問題の ひとつだ。

 

「人間のものと言えるものは、何か ?」

それは 何一つないように 思える。

そして、何一つ あなたのものでないとわかって  初めて あなたは、「私は 自分を捧げる」と 言える。

だが、そう言うことさえ 正しくない。

あなた自身が、自分のものだ と言えるかね ? 

あなたの存在は、あなたのもの だろうか ? 

あなたは 自分の存在に 責任を負っているかね ? 

自分が存在することの 責任を負っているだろうか ? 

 

人間は どこからか、やって来る −−− 

ある 知られざる根源から。

人間は、ここに自分が存在する責任を 負っていない。 

キルケゴールは 言った。

「人間を見ていると、ここに 放り出されたように感じる」

人間は、自分の存在に関してさえ、責任を 負っていない。

存在とは、神のなかに その基盤がある。

それを 次のように理解しなさい。

 

木は「私は大地に 私自身を捧げます」と 言えるだろうか。

それは どういうことだろう ? 

それは 無意味だ。

木は 大地に根ざしている。 木は まったく大地の一部だ。

木 とは 大地のことであり、それ以外の何ものでもない。

それなのに、どうして 木が「私は大地に自分自身を捧げる」と言えるだろう ?  それは無意味だ。

木は すでに大地の 一部だ。

それは 異なるものではない。

だから 捧げることはできない。

そこで まず第一は、あなたは 自分のものなら  捧げられる ということだ。

第二に、あなたと 捧げるものとの間に距離があり 分離の状態があれば、捧げられる ということだ。

木は 自身を 大地に捧げることは できない。

大地との 差異がないからだ。

あるいは 次のように考えなさい。

川には「自分自身を海に捧げる」ことはできない。

川は 海に根ざしていない。

川と海は 分離している。

そうであっても、川は

「自分自身を海に捧げる」ことは できない。

なぜだろう ? 

それができないのは、それが川の 選択ではないからだ。

川は 海へと流れなければならない。

そこに 選択の余地はない。

川には まったく、どうしようもない。

たとえ川が 捧げない と 選択したくても  その選択に従うことはできない。

捧げることは、避けがたいことだ。

そして、捧げることが

自分で選んだのではないなら、それは 無意味だ。

 

川には「私は自分自身を 海に捧げる」とは言えない。

というのも、川は 海に至らなければならないからだ。

その至ることは、ただの自然の役割にすぎない。

川は 自分で選んで 海に至ったわけではない。

川の側では 選択できないからだ。

川には まったく、どうしようもない。

他に どうすることもできない。

 

そして 三つ目、他の道を選択できて、初めて あなたは 何かを捧げられる。

もしあなたが 捧げないで いられるなら

捧げられる ということだ。

その時、それは あなたの選択だ。

 

 

(01)終わり(02)ヘ 続く