saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章 「残るのは知るものだけ」 第二の質問

第二の質問

愛する和尚、

夢は架空のものです。
しかし、マハヴィーラの母親が マハヴィーラを生む前、夢で 九頭の白い象を見た という話を 聞いたことがありますし、読んだこともあります。
それは 何を意味するのでしょうか。
また、質問者の夢を ひも解くことに、どんな効果が あるのでしょうか。



夢は架空のものだ。
だが、あなたの生も そうだ。
夢は 架空のもの。だが、それこそ あなたの生の 何たるかだ。
あなたは ぐっすり 眠っている。
あなたの生は 夢に過ぎない。
自分の いびきが 聞こえるだろうか。

あなたは ぐっすり眠っている。
あなたが 自分の生を 何と言おうとも、目を開けて見ている夢に過ぎない。
あなたは ニ種類の夢を見る。
一つは 目を閉じて見る夢、もう一つは 目を開いて見る夢。
だが、 ともに 夢だ。

「夢は架空のものです。 しかし、マハヴィーラの母親が、マハヴィーラを生む前、夢で 九頭の白い象を見たという話を聞いたことがありますし、呼んだこともあります」と あなたは言う。
あなたが 読むのは夢だ。
あなたが 聞くのは夢だ。
あなたがマハヴィーラについて 何を聞こうとも、それとマハヴィーラとは 何の関わりもない。
それは あなたの夢だ。

考えてごらん。
マハヴィーラの母親が 九頭の白い象の夢を見た。

まずもって、それは夢であるということ。
それから、白い象についての夢であるということ。
夢の中の 夢だ ! 白い象 ?
その話は 美しい。
生は まさに、チャイニーズボックス (箱の中の箱)のごときのものだ と言っている。
あなたは 夢を見続ける ーー ちょうど 玉ねぎの皮を剥くように。
皮を剥く、また 皮がある。
皮を剥く、また 皮がある。 箱の中の箱だ。


まず マハヴィーラの誕生というのが 夢で、次に母親から生まれる というのが もう一つの夢だ。
それから母親が 夢を見る。
しかも 白い象の夢だ !
このばかばかしさ、その すべてを見るがいい。

こうした夢を分析し、騒ぎ立てる愚かな人々がいる。
ジャイナ教徒は、ティルタンカラ (救世者)が生まれるときには、必ず、一連の 特別な夢が 母親に現れる と言う。
もし現れなければ、その子は ティルタンカラではない。
いいかね、 それで母親たちは、全員 夢を見なければ な ら な か っ た のだ。
インドには 二十四人の ティルタンカラが生まれた。
そして その母親たちは皆、 その同じ夢を 繰り返し見なければならなかった。
それは必要条件、決まり だった。
避けては通れない。
夢を見なければ、息子は ティルタンカラではあり得ないのだから。
私の母が 夢を見始めたとき、私は こう言った、「やめなさい ! その必要はない。
私は定められたこと、型にはまったことをやるつもりはない。
白い象の夢を見る必要はない。 休みなさい」と。

愚かな人々は、馬鹿げたものを 探し続ける。
だが、上手に 飾りつける。
あなたは、それが どういう意味か と尋ねる。
それは 何の意味もない。
あなたが、現実よりも夢の方に興味を持っていることを示すに過ぎない。


人々は、マハヴィーラ自身には 興味を持たない。
もしマハヴィーラの母親が その夢を見忘れていたら、ジャイナ教徒たちはマハヴィーラを、二十四番目のティルタンカラとして 認めなかっただろう。
それは、決定を下す 最も重要な条件の 一つだった。
あなたは 知らないだろうが、自分を ティルタンカラだと主張した人が、ほかにも数人いたのだ。
マハヴィーラの時代、そのように主張した人が 八人いた。
けれども基準がなかったため、どのようにして判定するかが 大問題となっていた。
そこで人々は、これほど馬鹿げた基準を 発案しなければならなかった。
物語では、そうした夢を見たのは マハヴィーラの母親だけだと言われている。
ゴシャラクの母親は失敗した。
哀れにも、ゴシャラクは そのことで苦しんだ。
マハヴィーラの母親は、とても賢かったに違いない。
きっと、すべてを計画的に、とても上手に進めたのだろう。
少なくとも、マハヴィーラの占星術師は そうしたはずだ。

マハヴィーラを生むと、母親はすぐに死んだ。
実のところ、母親が誰かに 夢の話をしたようには思えない。
すぐに 死んでしまったのだから。
だが、 それも重要な点で、ジャイナ教徒は、ティルタンカラが生まれると 母親はすぐに死ぬ と言う。
事態は、母親にとって 極めて厳しいものとなった。
マハヴィーラの母の死は、まったくの偶然だったに違いない。
ゴシャラクの母は 生き延びたが、それは許されることではなかった。
ゴシャラクは、自分の母親が 生きていたがために苦しんだ。
マハヴィーラの母親は 死んだ。
馬鹿げた 判定基準だ。
ジャイナ教徒は、直接マハヴィーラを見るのではなく、別の指標を探している。


エスが 生きていたとき、ユダヤ人たちは ある決まった問いを発した。
エスが、旧約聖書に記されている予言を 成就しなければならなかったからだ。
予言が成就されるか 否か ?
エスは現実に そこにいた。
目の前に 立っていた。
だが、ユダヤ人たちは イエスに関心はなく、旧約聖書の予言に 関心を寄せていた。
予言が成就されれば、イエスは その人だ。
成就されなければ、その人ではない。
人は、どこまで愚かになれるのだろう ?
エスは そこにいるというのに ーー だが、それは何の証明でもない、違う。
ところがユダヤ人たちは、すべての基準を 満たしていないと考え、イエスを 否定した。
エスを ペテン師、偽物にすぎないと考え、磔にしなければ ならなかった。
エスは、すべての予言を 成就したわけではなかった。

キリスト教徒は、イエスが予言を 成就したことを証明し続けている。
もはや それは、論理、議論という 単なる言葉の遊びになってしまった。
事実は 完全に忘れられている。

実物を見ることだ。
マハヴィーラが そこにいるなら、母親が 白い象の夢を見ようと、黒い象の夢を見ようと、マハヴィーラは そこにいる。
夢を見た 見ないが、重要なのではない。
母親の生死が 重要なのではない。
すべて 無関係なことだ。
マハヴィーラが そこにいるなら、直に 見ればいい。
その存在が 充分な証となる。
もしそれが 充分でなくとも、他の証を あれこれ考える必要はない。
他の証が 何の役に立つというのだろうか。

「また、質問者の夢をひも解くことに、どんな効果があるのでしょうか」。
質問者たちには 夢しかない。

まだ 現実の生を 手にしていない。
だから私は、質問に答えて彼らを 夢の泥沼から引き出そうとしている。
質問者たちの夢に興味はないが、夢を 見ている意識には興味がある。
その意識は 夢ではない。
夢を見ており、夢の中にあるが、夢ではない。
それは 現実だ。
だから、夢見の状態から 引き出さなくてはならない。


必要な方便は、何でも 使い続ける。
あなたが夢から 出てくるのに、夢の分析が 役立つだろうと思うことがあれば そうする。
だが、いつも、いつも心に留めておきなさい ーー 私は 夢に興味はない、私は精神分析家ではないと。
しかし分析によって、あなたは夢ではないことを、夢の 目撃者だ ということを気づかせられると思ったら、私は 夢を分析する。
夢の中に 現実はない、夢見る人の 中に現実はある。
だから、夢見る人を 覚まさねばならない。
私は 目覚し時計のような役割を果たす。



(第二の質問)終わり・・・(第三の質問)へ 続く