saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第十章 東洋と西洋を超えて (第六の質問) (01)

第六の質問

愛する和尚、

この地上で あなたの生、あなたが現れた理由を考えてみると、あなたが引き受けた仕事には、間違いなく危険があるように思えます。
また、失敗する可能性も あるように思えます。
あなたの活動が 許されないこともあるだろうし、あなたも間違い、過ちを犯し得るはずだからです。
失敗する自由が なければ、自由など まったく存在しないような気がします。
ところが、あなたを見ると 失敗という問題はないのです。
無我であることは 完全であることですから。
意見を お聞かせください。



最も 大事なのは、私は 何も引き受けていない ということだ。
これは 引き受けた仕事ではない。
実のところ、私は どんな仕事もしていない。
私が しているのは 仕事ではない。

あなたには 仕事かもしれないが、私には そうではない。

私は ゲームを楽しんでいる、それは 遊びだ。
遊びでは、間違いをする しないは問題にならない。
どうでもいいことだ。

事を深刻に 受け取ると、間違いが とても とても重要になる。
重大な仕事と 思っていれば、間違いが きわめて重要になる。
だが 私は、少しも深刻にならずにそれをしている。

それは 笑い、踊りだ。
私には 遊びだ。
私は 楽しんでいる。

また、 私には 計画がない、計画などに 敬意は払わない。
それで、どうして間違いを犯すというのだろう ?
計画を 持てば、間違いが 起こり得る。
どこで間違ったかが わかる。
私には 計画がない。
私は 設計図を持たない。
その瞬間に 起きていることを し続けているに過ぎない。
だから、何が起ころうと 完全に正しい。
というのは、基準も、試金石もなく、判断のしようがないからだ。
それが その素晴らしさであり、自由の何たるかだ。

深刻に仕事をしていては、けっして自由になれない。
不安が 常に あなたを襲う。
深刻に仕事をしていると、まずいことになりはしないかという恐れが 常に つきまとう。

正しいものなど ないのだから、私には 間違いようがない。
正しいものが あれば、何かが 間違いになり得る。
正しいものがなければ、間違いもない。
それが東洋の リーラ(遊び)という観念の意味だ。
それは 遊び心に溢れている。
ここにいる間、私は この遊びを 楽しんでいる。
恐ろしいほどに、とてつもなく楽しんでいる。


あなたは、「この地上であなたの生、あなたが現れた理由を考えてみると・・・」と 尋ねている。
あなたは間違った言葉で 考えている。
宗教が、あなたのマインドを条件づけてきた その言葉で考えている。

キリスト教徒、ヒンドゥー教徒イスラム教徒、ジャイナ教徒のように 考えている。

あなたは まだ、私の言葉を 理解していない。


キリスト教徒は、キリストが全世界を 罪から救うために現れた と考える。
ばかばかしい限りだ !

見ての通り、世界は いまだに救われていない。

実のところ、世界が 完全に 罪から救われたら、キリストに残された仕事は 一つもなくなるだろう。
彼は 一文無しになるだろう、破産するだろう。
店を 閉めなければならなくならだろう。

ジャイナ教徒は、ティルタンカラは 人類を救うために現れる と考える。
理解はできる。
あなたは救いを求め、救いを 投影する。

だが、ティルタンカラは あなたを助けない。
楽しんでいるだけだ。
あなたも、楽しみたければ 参加できる。
ティルタンカラは、霊的 楽しみの扉、霊的至福の扉を 開けるに過ぎない。
それに、あなたが 来ても来なくても 気にしない、数人来ようが 何百万人来ようが、気にしない。
誰一人 来なくても、百万人来ても 同じこと。
客は 探さない。
ティルタンカラは 幸せだ。
彼にすれば、物事は まったく良い方向に 進んでいる。
数人やって来て 彼と踊れば、それも良し。
誰一人 来なければ、一人で 踊る。
踊りは 変わらない、 完全だ。
それは 仕事ではない。

ヒンドゥー教徒は、世の中が 不幸なとき、無知の中にあるとき、アヴァターラ(神の化身)が 現れる と考えている。
宗教が 世の中から消えるとき、アヴァターラが 現れる、と。
ばかばかしい限りだ !
アヴァターラは 何度も 何度も 現れた。
だが、不幸は なくならなかったし、無知も なくならなかった。

宗教は、けっして既成事実化されない。
実際、既成事実化された 途端、宗教ではなく 教会になる。
既成事実化された宗教は、もはや 宗教ではない。
既成事実化されないものしか 残らない。
宗教は 反逆だ。
元来、宗教は 反逆的であり、それを元にして 物事を 定めることはできない。
遊びは 続く。

しかし、なぜ至るところで 人々は救いを求め、それを 投影するのか、私には理解できる。
それは 人々の望みだ。
彼らが不幸なのは確かで、助けてもらいたがっている。
なぜ、人に 助けてもらいたいのだろうか。

自分で 責任を取りたくないからだ。

あなたは、まず 人が 自分を不幸にした と言い、次に 誰かが あなたの不幸を取り除かなければならない と言う。
あ な た は 何を しているんだね ?
あなたを不幸にしたのは あなたではない。
それを 取り除くことも、あなたには できない。

あなたは いるのだろうか、いないのだろうか ?



第六の質問 (01) 終わり・・・(02)へ 続く