saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章「自由への恐れ」(15)


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(15)

 

 あなたが座っている。

その時、こう決意するのだ。

「さあ、 今から 十分間、私は 身体を動かさない」と。

すると、身体は 決意する前には動かなかったのに、そう決意してから 身体に対し、動くようにせめたてることに あなたは驚く。

あなたは、自分でも気づかなかった沢山の、微妙な身体の動きを 感じ始める。

 

あなたは、動こうとする多くの衝動を感じる。

 

あなたは最初に決めたように、どんな動きもなく座っていた。が、もうじっとして座っていることはできない。

 

もしあなたが 十分間でも じっと座っていられたら、他の どんな瞑想も必要ない。

 

日本では「ただ座る」ことを、唯一の瞑想だと言う。

そのための言葉が「座禅」だ。

「座禅」とは、ただ座る ことだ。

あなたは 座り、他のことを 何もしない。

 

一人の探求者が、禅師のところに やって来た。

その師 曰く「ただ座りなさい。何時間も 座りなさい」

禅寺では、実に多くの 探求者たちが、何時間も座り続けているのが 見られる・・・ただ 座り、何も しない。

瞑想は 与えられず、考えることもなく、祈りも ない。

ただ座ることが 瞑想だ。

 

探求者は 全く動かず、六時間 座り続ける。

そして 全ての動きが収まり、なくなると・・・身体からの動きだけではなく、内側にある 動きたい という衝動もなくなると、あなたは 統一している。

あなたは 結晶化された ! 

 

あなたは、座るという ごく平凡な行為を、自身の決断力、自身の意志、自身の 意識のために 使った。

 

それは とても難しい。

もし私が あなた方に「ただ 目を閉じなさい。 目を 開けてはならない」と 言えば、多くの 動きたい衝動が 身体の中に 湧き起こって 来るだろう。

すると、目を開けずにいることが 

とても辛く 感じはじめる。

 

あなたは 目を開けるだろう。

その時、

「私が 目を開けたのではない。突然、開いた。 目がひとりでに開いた。私は気づかなかった」と 言って、自分を だますことも できる。

あるいは 別のやり方でも 自分をだませる。

ほんの ちょっと、わずかに外を見て、また目を閉じることも できる。

 

もし あなたが、ただ自らの 意志的行為として 目をつむり続けていられたら それは 役に立つ。

 

あらゆることが、成長のための媒体になる。

だから、自分の 癖についても 深く考えること。

何を するにしても、自らの意志においてするがいい。

どんなことでも、どんな癖でも 使うことができる。

どんな機械的な行為でも 使うことができる。

今までとは違う 別のやり方で やりなさい。

習慣的な行為を 変えなさい。

 

 

(15)終わり(16)へ 続く