saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第18章「意識の光」質疑応答 (08)


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(08)

( 私の瞑想は、怒りがやって来た 同じ源へと そのエネルギーを 導く。

そして、それは 円となる。

その 内なる円が マハヴィーラの強さだ )

 

セックスエネルギーは ほかの誰かに動くことなく、そのエネルギーの源へと 帰って行く。

そのセックスエネルギーの円が ブッダの強さだ。

我々は 弱い。

それは、我々には ブッダより少量のエネルギーしかないからではない。

我々には ブッダと同量の エネルギーがある。

誰にも 皆、同じ量のエネルギーがある。

だが、我々は それを散逸させることに慣れている。

エネルギーは 我々から出て行き、 決して 戻って来ない。

戻って 来れないのだ ! 

一度、あなたから そのエネルギーが出て行けば 

それは 決して戻って来れない −−− 

それは あなたの力を 越えている。

 

言葉が 私のなかに 現れる。

私は その言葉を発し、その言葉は流れ出る。

その言葉は、決して私のところに 戻って来ない。

そして、その言葉を生み出すのに 使われたエネルギー、言葉を発するために 使われたエネルギーは、散逸してしまった。

 

言葉が私のなかに現れる。

私は その言葉を 発しない、私は沈黙している。

その後、その言葉は動き、動き、動き回って 再び 元の源へと戻っていく。

そして、そのエネルギーは 再び使われる。

静寂は エネルギーだ。

性超越(プラフマチャリア)は エネルギーだ。

怒らないことは エネルギーだ。

だが、抑圧ではない。

もし 怒りを 抑圧すれば 

あなたは またしても エネルギーを使ってしまう。

だから 抑圧してはいけない −−− 

観察し、その感情に ついていきなさい。

闘ってはならない −−− ただ 怒りと ともに後退しなさい。

 

それが、最も純粋な 気づきの方法だ。

だが、ある別の方法も 使われる。

初心者には、ある工夫が 可能だ。

 

そこで、 三つの工夫について話そう。

その工夫の 一つのタイプは 身体への気づきが 基本となる。

怒りのこと、 セックスのことは忘れてしまいなさい −−− 初心者に それらは 難問だ。

それらの問題と 取り組んでいたら まったく狂ってしまって 瞑想できまい。

怒っていたら、瞑想できない。

瞑想のことを 考えることさえできない。

ただただ 狂ってしまう。だから、それは 忘れなさい。

それは難問だ、だから今は、自分の身体を、気づきのための工夫として 使いなさい。

 

ブッダ 曰く、

「歩くとき、意識を持って 歩きなさい。 呼吸するとき、意識を持って 呼吸しなさい」

その仏教徒の方法は アナパナサティ・ヨーガ −−− 

入息と出息の ヨーガ、入息と出息に対する 気づきのヨーガとして 知られている。

 

息が 入って来る、 その息と ともに 動きなさい。

そのとき、息が入っていくのを意識し、認知しているのだ。

 

息が 再び 出ていくとき、その息と ともに動きなさい。

息とともに、内に あり、 息とともに 外に あるのだ。

 

怒りに気づいているのは 難しい。

セックスに 気づいているのは 難しい −−− が、呼吸に 気づいているのは それほど難しくない。

息とともに 流れていきなさい

意識せずには、一息たりとも 息を入らせたり 出させたり してはならない。

それは 一種の 瞑想だ。

 

そのとき、あなたは 呼吸に意識を集中させている。

そして 意識を 呼吸に集中させると 思考は 自動的に 止まる。

あなたは 考えることが できなくなる。

 

というのも、あなたが 考えた瞬間、

意識は 呼吸から 思考へと 動いてしまうからだ。

すると あなたは 息を 見逃す。

 

 

(08)終わり(09)ヘ 続く