saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 1」by OSHO (第9章 12)

『人間は神に何を捧げられるか ?』(12)

 

この経文 曰く

『マインドが絶えず “それ” ヘと向かっていること、それが捧げものだ』

 

マインドは 絶えず継続して、隙間なく

“それ” に向かって 流れていなければならない。

 

あなたが世間から 神を引き離しているのに、どうしてマインドが “それ” に向かって 流れることができる ? 

 

あなたは 食べなければならない。

その時、あなたは神を 忘れてしまっているだろう。

あなたは 自分の神を 忘れてしまっている。

あなたは 眠らなければならない。

その時 あなたは 忘れてしまう。

自分の神を 忘れているだろう。

あなたは 無数のことを しなければならない。

すると神は、絶えず 一つの闘いのように

あなたの意識の中に やって来ることになる。

だから、世間に反するものとしての 神と ともに歩んでいる宗教は、とても苦しんでいる。

そして、宗教家と 言われている人達は

絶えず神の方に 向いていない。

反対に ただ、緊張に向かっている。

彼らは 苦悩の中に 生きている。

あらゆる ものごとが 神に反するようになる。

だから、苦悩が あって当然だ。

どうして彼らに 笑うことができる ? 

どうして彼らに 歌うことができる ? 

あらゆる物事が、神と彼らの間に やって来る。

彼らが神を 見い出すところは どこであれ

何か 邪魔が入ってくる。

全世界が 敵のようになり、友達は友達ではない。

彼らは あなたと神の間に入って来て、敵になる。

 

愛が毒に なってしまう。

それが あなたと神の間に入って来るからだ。

あらゆるものが、途中で、あなたと神の間に 入って来る。

あなたは、あらゆるところから 邪魔されている。

それで、どうして安らぎの中に 生きられるだろう ? 

そんなことはできない。

 

ごく普通の人、世俗的な人でさえ

あなたより ずっと安らいで生きられる。

 

もしあなたの神が 何か世間に 反するものであれば

あなたは安らぎの中に 生きられない。

あなたは 絶えず、拷問を受けているような状態の中に

生きるだろう。

もちろん、その拷問が 自ら課したものであれば、あなたのエゴは満たされ、強められ、それを楽しめる。

そして、自らが課した拷問を 楽しみはじめるなら、その人は 正気ではない、狂っている ということだ。

もう、彼は まともではない。

 

 

(12)終わり(13)ヘ 続く