saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章 「 第二の質問 」 (01)

 第二の質問

「バグワン、 私たちが耳を塞ぎ、眼を閉じ、口をつむって そこに坐り、けっしてメッセージをーーー『解答はいっさい存在しない』というメッセージをーーー受け取らない というのに、あなたは毎日毎日、同じ質問に答えていて、退屈し、飽きて、 うんざりしませんか ?

あなたは たえず、早朝の光のなかの露のような新鮮さで私を強く驚かせます。

それでも、私は めくらで、つんぼで、びっこで、あなたの光輝を 分かち与えられることから切り離されています、ほんの一瞬を除いてーーー」

 

 

一番目のこと ーーー

私は いない

だから、 私は 退屈したり飽き飽きしたり できない

退屈するためには、まず あ な た が いなければならない

あなたが いれば いるほど、それだけ あなたは退屈するようになる

あなたが いなければ いないほど、それだけ あなたは退屈しなくなる

だから 子供たちは 年とった人々より 退屈しない

あなたは それを観察したことがないだろうか ?

子供たちは ほとんど退屈しない

彼らは 同じおもちゃを相手に 遊びつづける

彼らは 同じ蝶々を 追いつづける

彼らは 同じ貝殻を 集めつづける

彼らは 退屈しない

 

あなたは 子供に話をしてあげたことが あるだろうか ?

それに 耳を傾けたあとで、子供は 言う

「 それ、もう一度 きかせてよ・・・もう一度 」

そして、あなたがその子に会うときは いつでも、こう言う

「あの お話してよ、気に 入ったんだ」

なぜ子供は 退屈しないのだろう ?

それは 彼が いないからだ

あるいは、彼は非常に 未発達な状態にあって、自我(エゴ)が まだ進化していないからだ

自我(エゴ)こそ 退屈を 生み出す要因だ

 

動物たちは 退屈しない

樹々は退屈しない

動物や 樹の生のなかに いったいどんな新しさが あるのだろう ?

バラの茂みは、年がら年中、同じバラを 生み出しつづけている

小鳥は、毎朝毎夕、同じ歌を さえずり つづけている

カッコーは多くの鳴き方を 知らない、ただ 一つの鳴き声だけだ

カッコーは それを繰り返しつづける、それは 単調だ

だが 一匹の動物と いえども退屈せず、一本の樹といえども退屈しない

自然は 退屈というものを まったく知らない

なぜだろう ?

それは 自然が まだ自我(エゴ)を もっていないからだ

 

そして、仏陀のような人は 退屈しない

エスのような人は 退屈しない

なぜなら、 再び 彼らは 自我(エゴ)を 落とした からだ

自然は まだそれを 進化させてはいないが、仏陀は それを既に落とした

仏陀と自然は ほとんど同じだ

「ほとんど」と言うのは、ただ ひとつだけ ちがいがあるからだ

重大な意味を もってはいるが、そのちがいは たったひとつだ

そのちがいとは 自覚(アウェアネス) の ちがいだ

自然は 自我(エゴ)なしに あるが、無自覚だ

仏陀は 自我(エゴ)なしにあるが、自覚している

ひとたび自分がそこに 存在しない と知ったら、いったい誰が退屈するだろう ?

いったい誰が うんざりするだろう ?

 

だから、私は 毎朝来て、あなた方の質問に 答えつづけることが できる

私は 退屈していない

私は 退屈できない

この 二十五年近くというもの、私は 退屈を味わったことがない

私は、その味 そのものを、それはどんな感じのするものなのか 忘れはじめた

 

(01)終わり・・・(02)ヘ 続く