第二の質問
「バグワン、 私たちが耳を塞ぎ、眼を閉じ、口をつむって そこに坐り、けっしてメッセージをーーー『解答はいっさい存在しない』というメッセージをーーー受け取らない というのに、あなたは毎日毎日、同じ質問に答えていて、退屈し、飽きて、 うんざりしませんか ?
あなたは たえず、早朝の光のなかの露のような新鮮さで私を強く驚かせます。
それでも、私は めくらで、つんぼで、びっこで、あなたの光輝を 分かち与えられることから切り離されています、ほんの一瞬を除いてーーー」
一番目のこと ーーー
私は いない
だから、 私は 退屈したり飽き飽きしたり できない
退屈するためには、まず あ な た が いなければならない
あなたが いれば いるほど、それだけ あなたは退屈するようになる
あなたが いなければ いないほど、それだけ あなたは退屈しなくなる
だから 子供たちは 年とった人々より 退屈しない
あなたは それを観察したことがないだろうか ?
子供たちは ほとんど退屈しない
彼らは 同じおもちゃを相手に 遊びつづける
彼らは 同じ蝶々を 追いつづける
彼らは 同じ貝殻を 集めつづける
彼らは 退屈しない
あなたは 子供に話をしてあげたことが あるだろうか ?
それに 耳を傾けたあとで、子供は 言う
「 それ、もう一度 きかせてよ・・・もう一度 」
そして、あなたがその子に会うときは いつでも、こう言う
「あの お話してよ、気に 入ったんだ」
なぜ子供は 退屈しないのだろう ?
それは 彼が いないからだ
あるいは、彼は非常に 未発達な状態にあって、自我(エゴ)が まだ進化していないからだ
自我(エゴ)こそ 退屈を 生み出す要因だ
動物たちは 退屈しない
樹々は退屈しない
動物や 樹の生のなかに いったいどんな新しさが あるのだろう ?
バラの茂みは、年がら年中、同じバラを 生み出しつづけている
小鳥は、毎朝毎夕、同じ歌を さえずり つづけている
カッコーは多くの鳴き方を 知らない、ただ 一つの鳴き声だけだ
カッコーは それを繰り返しつづける、それは 単調だ
だが 一匹の動物と いえども退屈せず、一本の樹といえども退屈しない
自然は 退屈というものを まったく知らない
なぜだろう ?
それは 自然が まだ自我(エゴ)を もっていないからだ
そして、仏陀のような人は 退屈しない
イエスのような人は 退屈しない
なぜなら、 再び 彼らは 自我(エゴ)を 落とした からだ
自然は まだそれを 進化させてはいないが、仏陀は それを既に落とした
仏陀と自然は ほとんど同じだ
「ほとんど」と言うのは、ただ ひとつだけ ちがいがあるからだ
重大な意味を もってはいるが、そのちがいは たったひとつだ
そのちがいとは 自覚(アウェアネス) の ちがいだ
自然は 自我(エゴ)なしに あるが、無自覚だ
仏陀は 自我(エゴ)なしにあるが、自覚している
ひとたび自分がそこに 存在しない と知ったら、いったい誰が退屈するだろう ?
いったい誰が うんざりするだろう ?
だから、私は 毎朝来て、あなた方の質問に 答えつづけることが できる
私は 退屈していない
私は 退屈できない
この 二十五年近くというもの、私は 退屈を味わったことがない
私は、その味 そのものを、それはどんな感じのするものなのか 忘れはじめた
(01)終わり・・・(02)ヘ 続く