saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第十章 東洋と西洋を超えて (第二の質問)

第二の質問

愛する和尚、
人間は目的志向で その行き先は星である、と あなたが言うのを 聞いたことがあります。
この花を咲かせ、私に 深い香りを嗅がせていただけませんか。



花は すでに咲いている。
あなたの鼻が つまっているんじゃないのかね。

鼻を通るようにして、匂いをかぐ能力を取り戻さねばならない。
嗅覚をなくしてしまったのかもしれない。

あなたは、 真理に出会っても、それが真理だと気づき得ないほど 長く 虚偽の中で生きてきた。
真理が あなたのところに 来ようとしていても、真理が 認めてもらいたがっていても、あなたは 虚偽の衣をまとっている。
真理を直接 見ることができない。
あなたは、は す か い に 見る方法を学んできた。
けっして直には見ない。
あなたの目は まっすぐに見ない。
始終 あっちを向いたり こっちを向いたり、常に事実を 見失っている。

私は ここにいる。 これが 私の言う花だ。
私は あなたの未来だ。
あなたに起こるであろうことが、私には起こった。
香りが嗅げなくても、花を 非難してはいけない。
鼻をかむことだ。
しかし、自我が そうするのは難しい。
自我は いつも非難しようとしている、けっして 自分を 変えようとしない。
「神はいない」とは言えるが、「おそらく、私には たくさんのブロックがあるから神が感じられないのだろう」とは 言えない。
花がある という事実は否定できるが、匂いを嗅ぐ能力を失ったという事実は是認できない。

だから、神を否定する人が大勢いる。
否定するのは簡単だし、心地よいのも事実だ。
神が いなければ、鼻のことも気にしなくていいし、自分の実存に働きかける必要もないのだから。
神がいなければ ワークはない、成長はない、探求はない。
怠けていられるし、無気力でいられる。
神がいなければ、罪の意識もない。

私は罪の意識を持つことには反対だ。
聖職者が造ってきた罪の意識を持つことには 反対だ。
だが、 聖職者が造ったものでない、違った種類の罪がある。
その罪の意識には、大きな意味がある。

生には もっと何かがあると 感じているのに、手に入れる努力をしていなければ、それが 生まれる。
罪の意識を感じる。
すると、何だか 自分の成長を止める障害を作っているような、怠惰で、無気力で、無意識で、眠りこけているような、少しも成熟していないような、自分の行くべきところへ行っていないような感じがする。
すると 罪の意識が 生まれる。

可能性があると思っているのに それを現実化していないとき、罪の意識が生まれる。
その意識は まったく別のものだ。


聖職者たちが人間に植えつけてきた罪の意識のことを、話しているのではない。
それを 食べてはいけない、食べれば 罪悪感を抱く。
罪悪感を抱いてしまうから、そんなことをしてはいけない。
彼らの非難する事柄は 何百万もある。
だから、食べたり、飲んだり、あれこれのことをすれば、あなたは 罪悪感に包まれる。

私は、その罪の意識について 語っているのではない。
それは 捨てなくてはならない。
実際それは、あなたを 今の場所に留めておくことに手を貸している。
そうした罪悪感は、内にある 本当の罪の意識を 気づかせないようにする。
些細なことで、数多くの騒動を引き起こす。
夜に食べると、ジャイナ教徒は 大騒ぎする。
あなたは罪を 犯した、罪人だ、どうして夜に食べたのか ? と。
あなたが、妻あるいは夫と離婚する、すると、カトリック教徒が罪の意識を 植えつける。
あなたは 間違ったことをした、と。
その女性と暮らし、絶えず喧嘩をしたのは悪いことではなかった。
その女性とあなた自身を だめにしたのは、悪いことではなかった。
あなたたち二人に挟まれ、子どもたちは潰されていた、子供をだめにしたのは悪いことではなかった。
子供の生活のすべてが、間違った方向に向けられていたが・・・いや、それは悪いことではなかった。
だが、 その結婚から抜け出すと、地獄から抜け出すと、罪の意識を感じる。

こうした罪悪感は、いかなる政治にも、いかなる聖職者や宗教や教会にも無縁の、本当の霊的な罪を 見ることを許さない。
本当の罪悪感は、きわめて自然なものだ。
何かできるのが わかっているのに 何もしないでいるとき、どれほど可能性があるのか 知っているのに、その可能性を現実化しないとき、開花し得る 途方もない宝の種を持っているのに、何もせず 惨めなままでいるとき、あなたは 自分に対して 大きな責任を感じる。
その責任を全うしていないとき、あなたは 罪の意識を感じる。
この罪の意識は、途方もなく重要だ。


私は ここにいる、その花は ここにある。
禅では、花は話をしないと いわれているが、それに反することを言いたい。
花も 話をする。
ただし、必要なことが 一つある。
聞く 能力、匂いを嗅ぐ能力だ。
花には 花の言葉が ある。
あなたにわかる言葉では 話さないだろう。
あなたの言葉は きわめて地域的なものだが、花の言葉は 普遍的だ。


私は ここにいる、私を 覗きこみなさい、私を 感じなさい、私の魂を 吸収しなさい。
私の炎を あなたに近づけなさい。
いつでも 飛び火できる。
私の炎は、飛んで言って 燃えていないあなたの蝋燭に火を つけられる。
近くに、すぐそばに 来なさい。
近づきなさい というのは、もっと愛しなさい ということだ。
あなたを近づかせるものは 愛しかない、親密にするものは 愛しかない。
物理的に近づくという問題ではない。
それは、内面における親密さの問題だ。
私に 心を開きなさい、私は あなたに開いているのだから、私の手の届くところに来なさい、私は あなたの手の届くところにいるのだから。

恐れてはいけない。
失うものは何もない、あなたの 鎖 以外には。



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