saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術」翻訳 : スワミ.ボーディ.イシュワラ

「相反するものが互いに補い合う」 (05)

 

(…常に 心に留めておくべきことは 

絶対に 否定的にならない ということだ。

そうすれば、抑圧は 存在しない )

 

最も、私は あなた方に「流れに 逆らうことが、マインドを上昇させるための 方法だ」と 言った。

私が「流れに逆らう」と言うのは、どんな意味だろう ? 

その違いは とても微妙だ。

が、一旦 それを感じれば

決して 軌道を踏み外すことは あり得ない。

たとえば、川で 流れに逆らって泳いでいるとする。

そこには 二つの可能性がある。

一つは、ただ 川の流れと 逆らうこと。

ただ 川の流れに連れ去られ、流れに押し戻され、流されてしまうことに、びくびくすること −−− 

ただ恐れ、おののき、川と闘うこと。

だとしたら、あなたは 流れに 負けてしまうだろう。

流れに連れ去られる という まさにその恐怖心、恐れる そのマインドでは、流れに勝てないからだ。

負けるに決まっている。

どれぐらい流れと闘っていられるだろう ? 

心の あり方全体が 否定的だ。

そして、川は とても肯定的で 生のようだ。

だが、あなたは ただ、恐れおののいている。

それで、どうして流れに 勝つことができる ? 

早晩、あなたはその闘いの中で  エネルギーを散逸させてしまう。

すると、流れはあなたを さらっていくだろう。

 

二つ目の 要点、もう一つの次元がある。

恐怖心が なければ、流れと闘うことはない。

一つ目は 恐怖ゆえに、闘いが 生じる。

覚えておきなさい。

闘いとは 恐怖を意味している。

恐怖が まず最初にやって来て、その後 あなたは 闘い始める。

あなたの 恐怖心が 闘いを作り出す。

あなたの恐怖心が 敵を作り出す。

だから、根本的には 恐怖心が 原因だ。

あなたが川を 恐れていなければ、川と闘うことはない。

川が 下流へ流れるのは 自然の法則だと知っていたら 川と闘うことはない。

たとえあなたが 下流へと流されても、罪悪感はない。

それは 自然だ。

たとえあなたが 下流へ流されても、敗北ではない。

闘うからこそ、負ける −−− それは敗北となる。

それは まったく 自然だ。

川は下流へ流れ、あなたは それとともに流れる。

あなたはそれを 楽しむことさえできる。

あなたは 流れる川 −−− 何一つ 努力せず

ただ、流れとともに 進んでいく。

川の喜びを 感じることができる。

そして流れは あなたを飲み込んでしまう。

自然に 下流へと流れるので エネルギーの保存さえできる。

 

そこで、まず 最初のことは、下へと流れるのを

恐れてはいけない ということだ。

恐がらないこと ! 

 

心に留めておきなさい。

それは 自然なことだ。

流れに負け、さらわれてしまうより

流れとともに 従ったほうがいい。

さもないと、当然のことながら 事の全体は、可能だったはずの 喜びを失うからだ。

そこで まず、自然であることは 罪ではない ということ。

それを 心に留めておきなさい。

そうして 初めて、全ての努力が 肯定的になる。

そうでないと 努力は 否定的になる。

自然であることは 罪ではない。

もちろん、それでは充分ではない −−− 

それはまた別のことだ。が、それは 罪ではない。

もしあなたが 自然に流れていれば、それで OKだ。

それが続く限りは OKだ。

それは 罪ではない、罪悪ではない。

それは不道徳ではない −−− それは まったく健康だ。

しかし それでは充分でない、と私は言う。

それでは充分でない。

さらに もっと、あなたの可能性が あるからだ。

 

可能性とは、ただ 健康であるためにだけ あるのではない。

あなたは 崇高であることも できる。

だから、恐怖の中に いてはいけない −−− それが 第一だ。

自然を 非難してはいけない。

そうすれば、否定的な気持ちは そこにないだろう。

だから、流れと闘ってはいけない −−− 流れと 戯れなさい。

あなたは 本当は、流れと闘っているのではない。

上昇していくために、ただ 自分自身を鍛えているのだ。

その違いを 感じなさい。

あなたは 川と闘っているのではない −−− ただあり余る力に満ちていて、エネルギーで一杯で、そのエネルギーを上昇させるために訓練しているのだ。

 

今や 川は敵ではない、むしろ友達だ。

川は あなたに、上昇し、ともに遊ぶ機会を与えてくれたのだから。

 

 

(05)終わり(06)へ 続く