saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第十章 東洋と西洋を超えて (最初の質問)(03)

あなたは その高みから、宗教、寛容、愛、教会、寺院、モスクの名において続けられている あらゆるナンセンスを、笑うことができる。

革命は、あなたの 内部で起こらなければならない。
革命を 世界に持ち込む必要はない。
なぜなら、生きているのは あ な た だけだからだ。
社会は 死んでいる、それは名目的なものに過ぎない。
魂なるものは、あなたにしかない。
総合は そこで起こる。
総合は、プーナ、ニューヨーク、ティンブクトゥ、コンスタンチノープルでは 起こらない。
それは あなたの内部、私の内部で起こる。
個々人は、その総合に向けた 偉大な実験場にならなければならない。
だが 覚えておきなさい、その総合が起こったら、それが東洋と西洋との、イスラム教と キリスト教との、ヒンドゥー教ジャイナ教との総合かどうかは言えなくなる。
いや、あなたには すぐ、それが超越であることがわかるだろう。
総合、本当の総合、有機的な総合は 超越だ。
標高が変わった、あなたは 頂上に立っている。
あなたは そこから眺める。

何であれ 私たちが見ているもの、目に入るものは さほど重要ではない。
重要なのは、あなたが どこに立っているかだ。
あなたが 東洋に しがみついているなら、西洋に何を見ても 誤解するだろう。


つい先日、私は新聞を読んでいた。
誰かが、私に反対する記事を書いていた。
アメリカ人に 宗教が理解できるはずがあろうか、西洋人に宗教が理解できるはずがあろうか、と 記事は 疑問を投げかけていた。
彼らには理解できない、だから私の努力は すべて無駄だ、 と。

これはインドの狂信的愛国主義者のマインドだ。
インド人は、インド人以外、宗教を理解できない と思っている。
だがこれは、インド人に限ったことではなく、すべての人に言えることだ。
すべての人が、この馬鹿げた考えを 心の底に抱いている ーー われわれは 選ばれた少数者だ。
この考えは きわめて破壊的だ。
アメリカ人か インド人かの問題ではない。
真理は、こうしたラベルとは 何の関わりもない。
こうしたラベルを すべて捨てる用意のある者なら、誰にでも真理は手に入る。
あなたが アメリカ人でも インド人でもなく、ヒンドゥー教徒でも キリスト教徒でもないときにのみ、真理は理解される。
いかなる条件づけにも、過去にも 曇らされていない意識によって、真理は理解される。
そうでないと、理解できるものだけを 見続ける。

とても素晴らしい小話を読んでいた・・・。

ある家族が、 一家の長に当たる祖父を ハンガリーから 何とか呼び寄せた。
それで、娘や その家族と 一緒に暮らすことになった。

老人は、ニューヨークと ニューヨークが提供するもの すべてに魅惑された。

ある日、孫のユンケルが、老人を セントラルパークの動物園に連れて行った。
彼は ほとんどの動物に 馴染みがあったのだが、笑っているハイエナが閉じ込められている檻のところに来たとき、不思議に思った。

「ユンケル、おじいちゃんの国じゃ、笑う動物なんて 聞いたことがないな」

ユンケルは 飼育員が近くにいるのに気づき、近寄った。
「僕の おじいちゃん、最近ヨーロッパから来たんだけど、笑うハイエナなんて いないって言ってるの。 おじいちゃんに少しずつ説明できるように、笑うハイエナのことを 教えてくれませんか」

飼育員は 言った、「そうねぇ。 そいつは、一日一回 食事をするんだ」

ユンケルは祖父の方を向き、イディッシュ語で言った。
「そいつは 一日 一回 食事をする」

飼育員は続けた、「週に 一回 水浴びをする」

「週に一回水浴びをする」老人は 熱心に聞いた。

飼育員は付け加えた、「年に 一回 つがいになる」

「年に一回つがいになる」
老人は頭を上下に振り、考え込んだ。
「そうか、そいつは 一日に一度 食事をし、週に 一度 水浴びをするのか。
しかしなぁ、年に 一度しか つがいになれないのに どうして笑うんだい ? 」


さて、この老人は、それほど年を取っていない。
彼のマインドは まだ どこかにしがみついている ーー 若かった時代に、そのマインドは、いまだに性的だ。

年に 一度しか つがいになれないのに、なぜ ハイエナが笑っているのか 理解できない。

セックス以外でも 幸福になれることを理解できない人たちがいる。
セックス以上の喜びを 理解できない人たちがいる。

食べ物以外の 幸福があることを、理解できない人たちがいる。

大きな家に住み、大きな車、大金、権力や名声を得る以外にも 幸福があることを、理解できない人たちがいる。

自分自身の考えを超えて 理解することはできない。
人々は、自分の 考えの中に 閉じ込められる。
それが 本当の監獄だ。

総合したかったら、あらゆる監禁を解き、檻を捨てなければならない。
それらは とても微妙な檻で、あなたは 長い間 飾り付けをしてきた。
好きにさえなりかけているかもしれない。
檻であることを、すっかり忘れているかもしれない。
自分の家だと 思い始めているかもしれない。

ヒンドゥー教徒は、ヒンドゥー教が 自分の家だと思っていて、障害だとは 絶対に思わない。

「主義(イズム)」は すべて障害だ。
キリスト教徒はキリスト教を 橋だと思っていて、キリストのところに行けないようにしているのが キリスト教だとは、絶対に 思わない。
教会は 扉ではない。
それは 壁、障害物、万里の長城だ。

だが、何世紀も、あまりに長く この壁と一緒に生活し、マインドが慣れてしまうと、それが護ってくれるもの、避難所、安心を与えてくれるものに思えてくる。
それから、あなたは 他の人を見る。
監獄の独房から 外を見る。
独房にいるせいで、あなたの見方が だめになる。


空の下(もと)に、星の下に出て来なさい。
総合は 自分で自分の世話をする。
あなたが 東洋と西洋を総合する必要はない。
あなたは、東洋と西洋という見地を 超えていくだけでいい。
超越の方に向かいなさい、そうすれば 総合がある。


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