saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第三章 「 ダンマの車輪 」 (04)

(…さながら 闇が光を おそれるように
虚偽は 真理を おそれる )

あなたが 真理に近づいた瞬間、マインドは 非常に掻き乱される
それは騒ぎたてる
それは ほこりを巻き上げる
それは あなたのまわりに雲を つくり出す
そうしてあなたは 真理が何であるかを聴けなくなってしまう


耳栓(イヤーロック)が 取り除かれなければならない
根本的なロックは 恐怖だ
あなたは 恐怖に ロックされている

仏陀は、無恐怖にならないかぎり 真理に達することはない、と言った

あなた方の 宗教を、あなた方が やってきたことを 見るがいい
あなた方の いわゆる宗教は すべて恐怖にもとづいている
恐怖を通しては 真理への道はない
ただ無恐怖だけが 真理とは何かを知っている


教会や モスクや寺院で
あなたが 聖像、聖典、伝統に おじぎするとき
その礼拝は どこから来ているのだろう ?

内側を 見つめるがいい
そうすれば あなたが見出すのは恐怖、恐怖、恐怖 だ
恐怖からは どんな信仰も 生まれない

だが、いわゆる信仰と言われるものは すべて恐怖にもとづいている
だからこの世界で 信仰をもつ人に出会うのは たぐいまれなことだ
なぜなら、信仰が起こるのは 恐怖が消えたときだけだからだ
恐怖の死の上にのみ 信仰が現われる


信仰とは 信頼を 意味する
恐怖に満ちた人が どうやって信頼を することができよう ?

彼は いつも考えている
彼は いつもずる賢い
彼は いつも守り、防御しようとしている
その彼が どうやって信頼することができよう ?

信頼するためには、あなたは勇気を 必要とする
信頼するためには、あなたは勇敢であることを 必要とする
信頼するためには、 あなたは危険を冒すことが できなければならない
信頼するためには、 あなたは危険のなかに とびこまなければならない


つい先日、私は危機 crisis を表わす中国の表意文字を見ていた
そして、それに興味を 覚えた
「危機」というその漢字は 二つのシンボルから 成っていたからだ
ひとつは「危険」を意味し、もうひとつは「機会」を意味している
そう、危険と機会の両方に直面している その時が 危機の瞬間だ
危険のなかへ とびこんで行かなければ、あなたは 機会を のがす

機会がほしければ、あなたは危険のなかへ とびこんで行かなければならない
どうやって危険に生きるかを 知っている人たち、ただ彼らだけが宗教的だ


恐怖こそ 根本的な耳栓だ
それから ほかのものも あることは ある
だがそれらは 恐怖から生じる
判断、 論争、 過去への 執着
自分の存在のなかへ 新しいものが入るのを 許さないことーーー



さまざまな形態、さまざまな言語において
「従順」を表わす言葉は「聴くこと」の強意語になっている
horchen, gehorchen, obedire などだ
これらの言語はすべて「情熱的に、熱心に、全面的(トータル)に 聴くこと」を 言っている

それから もうひとつ
absurd (不条理な) という言葉が
obedience (従順)の 反意語だと知って あなたは驚くだろう
absurdus とは「まったくの聾」という意味だ

だから、あるものを 不条理だ、ばかばかしい と 言うとしたら
あなたは ただ
「私は それが私に告げようとしていることに まったく聾だ」と 言っている

〈不条理〉な態度を〈従順〉な態度に 置き換えてごらん
そうすれば あなたは 聴くことができる
そうすればあなたは 耳を 裸にしている
そうすればあなたは 完全に開放的(オープン) になる


しかし、ふつうの人間に「注意深く聴きなさい」と言うのは いいことだ

なぜ仏陀は スブーティに それを言うのだろう ?

非常に意味深い何かが 理解されなければならない
言葉は それ自体では無意味だ
意味が生まれるのは その言葉が発せられたときだけだ
それが誰に語りかけられたか ということが、意味を決める
だから、あなたはどんな辞書のなかにも その意味を見出すことはできない

なぜなら辞書は ボーディサットヴァのために書かれてはいないからだ

それらは ふつうの人間たちのために 書かれている


では、この言葉は いったい どういう意味だろう ?
「よく、注意深く聴きなさい」

それは理解されなければならない 幾つかの事柄を意味する
ひとつーーー
そこにスブーティのような人が いるときには、「耳栓」の問題はない
まったく ない
彼の 仏陀に対する開放性に 問題は まったくない

それには 疑いの余地はない、彼は 開放的だ
彼がもう仏陀と 言い争っていないということに 疑いはない
彼は完全に 仏陀と共に在り、仏陀と共に 流れている
しかし
人がボーディサットヴァフッド(菩薩の境地)に 達したとき
人がブッダフッド(仏の境地)に 近づいたとき
そこには 新しい問題が 幾つか生じる

意識の新しい段階は それぞれ独自の問題を もっている

ボーディサットヴァの問題はこうだーーー
彼は 開放的(オープン)だ
彼は 受容的だ
彼は 用意ができている
しかし、彼は肉体から根こぎにされている
彼のハートは開放的だ
彼の存在は開放的だ
しかし、彼はもう 肉体の中には根ざしていない
彼はすでに肉体から切り離されていて、肉体は ただ うろついているだけ・・・
彼は 肉体の中には住まず、ほとんど肉体とは 同化されていない
ーーーそれが 問題だ


誰かが あなたに「よく聴きなさい」と 言うとき
それは、あなたの肉体は聴いているが あ な た は 聴いていない、という意味だ

仏陀が スブーティに言うときには
それは「 あ な た は 聴いている、だがあなたの肉体は聴いていない」という意味だ
それはまさに 反対だ

あなたが聴くとき、肉体はここにいるが あ な た は ここにいない
言葉が 耳に届き、それはそこで音や 騒音をたて、もうひとつの耳から 出てゆく
それは けっしてあなたの存在を よぎらない
あなたの存在は それに触れない


スブーティのような人の場合は、ちょうどその反対だ
彼の存在(ビーイング)は そこにあるが、肉体(ボディ)は そこにはない
彼は肉体を 見失ってしまっている
彼は肉体を忘れる・・・肉体を 忘れがちになる

彼が まったく肉体のことを考えない瞬間が 何度かある
彼は そこにいるが、肉体は そこにはいない
彼は 肉体の無い状態に 達している


さて、聴くことが可能なのは、肉体と魂が 両方共に存在するときだけだ

あなたのなかでは、肉体は存在するが 魂は不在だ
スブーティの場合は、魂は存在するが 肉体は不在ーーー

それが、仏陀が「スブーティよ、よく聴きなさい」と言うときの意味だ

おまえの肉体を ここへ 持ってきなさい !



(04)終わり・・・(05)へ 続く