saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第1話ーーー七段の梯子 (01)

般若心経
Om namo Bhagavatyai
Aya−Prajnaparamitayai !

Arya−Avalokitesvaro bodhisattvo
gambhiram prajnaparamitacaryam
caramano vayvalokayati sma :
panca−skandhas tams ca
svabhavasunyan pasyati sma.

“麗しく,また聖なる
知恵の完成者に礼したてまつる”

“聖なる観自在菩薩が彼方に至る知恵を究めつつあったとき,彼が高みから見おろすと,
目にはいるのは五つのあつまりばかりであり,それらも実体は空(くう)であることを看破した。”



あなたの内なるブッダにごあいさつします

あなたはそれに気づいていないかもしれない
あなたはそんなことを夢に見たこともないかもしれない
自分がひとりのブッダであるなどとは
誰ひとりとしてほかの何ものでもあり得ないなどとは
ブッダフッドこそまさに自分の実存の本質的中核であるなどとは
それは何か未来に起こることではなく
もうすでに起こってしまっているなどとはーー
それはあなたがやって来たまさにその源なのだ
それは源であり
そして目的地でもある
われわれが動きだしたのがブッダフッドからであれば
われわれが動いてゆく先もブッダフッドだ
ブッダフッド” というこの一言が一切を含む
アルファからオメガまで
完結した生のひとめぐりーー


ところが,あなたは眠りこけている
あなたは自分が誰かを知らない
あなたがブッダにならなくてはいけないというのじゃない
あなたはただそれを認識しなければいけないだけだ
自分自身の源に戻らなければいけないだけ
あなた自身の内をのぞき込まなければいけないだけなのだ
自分自身との直面が
あなたのブッダフッドを明かすだろう
人が自分自身を見たその日ーー
全 存 在 が 悟 る
ひとりの人が悟るなどということはない
どうしてひとりの人が悟ることなんかできる ?
ひ と り の 人 でいるというまさにその観念自体
悟らざる心(マインド)の一部にほかならない
私 が悟ったなどということはない
人が悟る前に,その〈私〉は落とされねばならないのだ
であれば,どうして 私 が悟ることなんかできる ?
それは馬鹿げている
私 が悟ったその日
全存在が悟ったのだ
その瞬間以来
私はブッダたち以外のものを見たことがない
いろいろな形を取り,いろいろな名前を持ち
千と一つの問題をかかえてはいる
が,それでもブッダたちだ


それだからこそ
私はあなた内なるブッダにごあいさつをする
こんなにもたくさんのブッダたちがここに集まって来たことを
私は大きな喜びとするものだ
あなたが私のここに来たというまさにその事実そのものが
〈認識〉のはじまりにほかならない
あなたのハートの中にある私への敬意
あなたのハートの中にある私への愛は
あなた自身のブッダフッドへの敬意であり愛なのだ
私への信頼は,何かあなたの外部にあるものへの信頼ではない
私への信頼は自己信頼なのだ
私を信頼することによって
あなたは自分自身を信頼することを学ぶ
私に近づくことによって,あなたは自分自身に近づく
達せられなければならないのは〈認識〉にすぎない
ダイヤモンドはそこにあるーー
あなたがそれを忘れてしまっただけだ
あるいは,そもそものはじめから
一度として思い起こしたこともないのだ


エマーソンの非常に有名な言葉に
「人間は廃墟の神である」というのがある
私は同感できるところとそうでないところとある
その洞察にはある真理がある
人間はそのあるべき姿ではないーー
その洞察は確かだ
が,ちょっとひっくり返っている
人間は廃墟の神じゃない
人間は 製 造 中 の神なのだ
人間は芽生えつつあるブッダなのだ
芽はちゃんとそこにある
それはいつ何どきにでも花咲き得る
ただほんのちょっとした努力
ほんのちょっとした手助け---
かと言って,その手助けがそれを引き起こすわけではない
それはすでにそこにあるのだ !
あなたの努力は,あなたにそれを明かしてくれるにすぎない
そこに隠されたものを開示するひとつの手助けだ
それはひとつの“発見”なのだ
が,〈真実〉はすでにそこにある
〈真実〉は永遠だ


これらの経文に耳を傾けるがいい
これは大蔵の仏典の中でも最も重要な経典なのだからーー



(02)へ続く