saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第五章「音を感覚への通路として使う」01

 

「音に関する第六の技法」01

 

『聴こえるように音を唱える。

    それから少しずつ音を小さくしていく ーー

    その感覚が沈黙の調べの中へ深まってゆくのに合わせて』。

 

 

  どんな音でもいい。

自分の 愛する音が あったら、そのほうがいい。

自分の愛する音は、たんなる音ではない。

その音を 唱えれば、そこに隠された感覚が その音とともに唱えられる。

そして少しずつ音は消え去り、感覚だけが 残る。

 

  音を 感覚への通路として 使ってみる。

音は マインドであり、感覚は ハートだ。

ハートへ向かうには 通路が必要だ。

直接ハートに入るのは 難しい。

私たちは何生にもわたって まったくハートを欠いてきた。

だから いったいどこから 入っていいのかわからない。

扉は まるで閉ざされているかのようだ。

 

  私たちは いつもハートについて語る。

だが、それもまた マインドの中のことだ。

たとえ「私はハートで愛する」と 語ろうとも、それも また観念だ。

頭の中のことだ。

ハートについて 語ることさえ、頭の中の出来事だ。

実際、ハートが どこにあるのか 私たちは知らない。

ハートと 言っても、肉体的な部位の ことではない。

肉体的な部位なら 私たちにも わかる。

医者や医学は 言うだろう、

「心臓(ハート)は 愛となんの関係もない。 たんなる循環器だ。 それ以外の何物でもない。 それ以外のものは、すべて神話であり、 詩であり、 夢だ」

 

  でも、タントラは 知っている ーー 肉体的な心臓(ハート)の後ろに、深い中心(センター)が 隠されている。

その 深い中心に達するには、マインドを使うしかない。

私たちは マインドの中に立っている。

私たちは 頭の中にいる。

だから 内側へ向かう旅は すべて そこから始めるしかない。

マインドとは音だ。

もし あらゆる音が止まったら、マインドは なくなる。

静寂の中に マインドは存在しない。

だからこそ 静寂が重要視されるのだ。

静寂とは ノー・マインドの状態だ。

 

  よく「私の心(マインド)は 静かだ」というような言い方がされる。

これは おかしい、馬鹿げている。

なぜならマインドとは「静寂ではない」という意味だからだ。

だから、「マインドは 静かだ」とは言えない。

マインドが あったら 静寂はありえないし、静寂があったら マインドは ない。

だから 静かなマインドといったものはない。

ありえない。

それは ちょうど「誰それが生き死にしている」と 言うようなものだ。

それでは 意味をなさない。

死んでいるなら生きてはいない。

生きているなら死んではいない。

「生き死に」は ありえない。

 

  だから 静かなマインド というものはない。

静寂が現れたら、マインドはなくなる。

マインドが 外に出ると、静寂が 中に入る。

マインドが 中に入ると、静寂は 外に出る。

両方 一緒には 存在できない。

マインドとは 音だ。

その音が 整然と していたら、人は正気だ。

その音が 混沌と してきたら、人は狂気だ。

だが どちらの場合でも、音は そこにある。

私たちは マインドという地点に存在している。

 

  どうやって この地点から、内側にあるハートの地点へと落ちていくのか。

そのためには、音を使い、音を唱えることだ。

音は ひとつのほうがいい。

マインドに 音がいくつもあったら、捨て去るのは難しい。

ひとつの音だけだったら、捨てるのも 楽だ。

だから まず、いくつもの音の中から ひとつの音を選んでみる。

 

  ひとつの音を 唱える。

唱え続ける ーー まず自分に聴こえるように 声を出して。

それから 少しずつ、 ゆっくりと、 小さく していく。

もはや 他人には聴こえない、でも自分の 内側では 聴こえる。

ひき続き それを、 もっともっと 小さくしていく。

そして スッパリと それを 落とす。

そこには静寂がある……静寂の爆発だ。

だが感覚は そこに ある。

もはや 想念はない、だが感覚はある。

 

  だから音や名前や マントラを使うときには、自分で なにか感じるようなものがいい。

ヒンドゥ―教徒の場合、「ラーマ」という音に なにかを感じる。

彼にとって それはたんなる言葉ではない。

頭だけの ものではない。

その波動は彼のハートにまで到達する。

自分では 気づいていないかもしれないが、その音は、骨の中、血の中にまで深く根を張っている。

何生にもわたる長い伝統、長い条件づけがある。

長い間 ひとつの音に親しんでいると、その音は どこまでも深く根を張る。

それを 使うのだ。

きっと 役に立つ。

 

  たとえばキリスト教徒が「ラーマ」を使うとする。

使うことは 可能だが、その音は いつまでたっても マインドのものだ。

深くまで いかない。

「イエス」とか「マリア」などを 使ったほうがいい。

新しい思想に 影響されることは まったく簡単だが、それを 使うことは難しい。

感じるものがない。

いかに頭の中で「このほうがいい」と確信してみたところで、その確信は 表面的なものだ。

 

 

 01おわり…02へ つづく

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社