saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第五章「音を感覚への通路として使う」03

 

「音に関する第六の技法」03

 

『聴こえるように音を唱える。

   それから少しずつ音を小さくしていく ーー

   その感覚が沈黙の調べの中へ深まってゆくのに合わせて』

 

  その音を小さくしていく。

もっと ゆっくり、もっと小声で唱える ーー 自分でも 聴くのに苦労するくらいに。

もっと小さく、 もっと小さく……するとそこに変化が感じられるだろう。

音が 小さくなれば なるほど、あなたは 感覚に満たされていく。

音が 消え去るとき、ただ 感覚のみが残る。

この感覚は 名づけられない。

それは 愛、深い愛だ……でも それは誰かに向けられた愛ではない。

それが 違いだ。

 

  音なり言葉なりを 使うとき、その愛には ラベルが添付されている。

たとえば「ラーマ、ラーマ、ラーマ」という言葉に深い感覚を持っている人が いるとする。

でも この感覚は ラーマに向けられている。

ラーマに限定されている。

この「ラーマ」を 小さくしていくと、やがて あるとき、「ラーマ」は 消え去る。

その音は 消え去る。

ただ 感覚のみが残る……愛の感覚が。

それは ラーマに向けられたものではない。

もはや それは無指向だ。

ただ愛の感覚だけがある。

誰にも向けられていない。

「向き」さえもない。

ただ 愛の感覚だけがある。

まるで 愛の大海の中に いるかのようだ。

 

  なににも向けられていないもの、それはハートのものだ。

なにかに向けられているもの、それは頭のものだ。

誰かに 向けられた愛は、頭を通じたものだ。

単純な愛は、ハートのものだ。

そして、 愛が単純で、無指向であるとき、 それは祈りとなる。

もし愛が なにかに向けられていたら、それは まだ祈りではない。

まだ その途上だ。

だからこそ 私は言うのだ ーー もし あなたがキリスト教徒だったら、ヒンドゥ―教徒として始めずに、キリスト教徒として始める。

もしあなたがイスラム教徒だったら、キリスト教徒として始めずに、イスラム教徒として始める。

だが深くいけばゆくほど、だんだん あなたは イスラム教徒やキリスト教徒や ヒンドゥ―教徒でなくなっていく。

 

  ヒンドゥ―教徒やイスラム教徒や キリスト教徒というのは、出発点に すぎない。

ハートに向かって進むにつれ……音が もっと小さくなり、感覚が もっと大きくなるにつれ、だんだん あなたはヒンドゥ―教徒でなくなり、イスラム教徒でなくなる。

そして 音が消え去るとき、あなたは ただの人間になる。

ヒンドゥ―教徒でも イスラム教徒でも キリスト教徒でもない。

 

  これこそが宗派 あるいは宗教の意味するところだ。

宗教は ひとつであり、宗派は 多数だ。

宗派は「始め」に 役立つ。

それを「終わり」だと考えたら、もう そこでおしまいだ。

宗派は始めでしかない。

大事なのは、それを去り、それを超えていくことだ。

始めは 終わりではない。

終わりには 宗教がある。

始めには 宗派しかない。

だから要は、宗派を使って 宗教へ向かい、限定を使って 非限定へ向かい、有限を使って 無限へ向かうことだ。

 

  どんな音でもいい。

自分自身の音を見つけてみる。

唱えてみれば、自分がその音と 愛の関係にあるかどうか わかる。

ハートが振動を始めるからだ。

 

 

…03 おわり 04へ つづく

 

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社