saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章「質疑応答」02

ーー 第一の質問 ーー 02

 

  タントラによれば、大事なのは なにかを達成することではない。

大事なのは ブラフマチャリヤを達成することではない。

ブラフマチャリヤ、禁欲、反セックスを 達成したところで、そのブラフマチャリヤは 基本的に性的な ままだ。

いかに 反対であろうとも、両極端は ともに 一つの全体に属している、ひとつのもの の 二局面だ。

その 一方を 選ぶことは、他方も 選ぶことだ。

その場合、他方は 隠され、抑圧されている。

抑圧とは なにを意味するのか。

それは 一方を否定して他方を選ぶことだ。

これが 抑圧の基本的な構成要素だ。

 

  たとえば セックスを否定して ブラフマチャリヤを選ぶ、だがブラフマチャリヤとは なにか。

それは まさに性エネルギーの反転像だ。

ブラフマチャリヤを選ぶことは、それとともに セックスも選ぶことだ。

すると ブラフマチャリヤが表面に現れ、奥深くに セックスが存在する。

それで あなたは 混乱してしまう、なぜなら 選択が混乱を生み出すからだ。

あなたが選択するのは 一方だけで、他方は自動的についてくる。

ところがあなたは その他方を否定している。

それで 混乱してしまう。

 

  タントラは 言う、

「選択せず、無選択であれ」。

いったん このことを理解すれば、なにが耽溺でなにが抑圧か という疑問は けっして起こらない。

もはや抑圧も耽溺も ない。

このような疑問が 起こるのは、まだ 選択しているからだ。

私のところへやって来て こう尋ねる人々がいる、

「私は生を受け容れます。 でも生を受け容れたら、いつ頃 ブラフマチャリヤが起こるでしょうか」。

彼らは 全面的に受け容れるつもりでいる。

だが その「つもり」は にせものだ、たんなる見せかけだ。

奥深くでは、依然として「極端」に しがみついている。

 

  彼らが 求めているのは、ブラフマチャリヤ、禁欲だ。

ところが セックスと戦っても 禁欲は達成できなかった。

それで私の話を聞いて こう考えた、

「戦っても達成できなかったので、今度は 受け容れによって達成しよう」ーー 。

だが そこにあるのは 達成しようという マインド、動機づけられた マインド、貪欲なマインドだ。

そこには 目的が あり、選択がある。

 

  もし 達成すべきものがあったら、全面性を受け容れるのは 不可能だ。

その受け容れは全面的ではない。

その受け容れは、なにかを達成する技法 としての受け容れだ。

ところが 受け容れとは、 達成しようとするマインドを 捨てること、動機づけられたマインドを 捨てることだ。

 

そのマインドは いつも なにかを求め、なにかを渇望している。

それを 捨てるのだ !  

生が自由に流れるままに する……ちょうど 風が 木々を吹き抜けるように。

生の 自由に まかせる。

生が自分の中を 自由に 通り抜けていくのに まかせる。

そして 抵抗することなく、生の 導くところ、どこにでも いく。

あなたに目的はない。

もし 目的があったら、あなたは必ず 生に抵抗する ーー 必ず 生と 戦う。

 

  もし 木に なにか目的があり、知識があり、企てが あったら、その場合、木は風を 自由に吹き抜けさせは しない。

もし木が 南へ行きたい と 思っていたら、自分を北に向けようとする風は、敵になる。

もし あなたに目的があったら、生を 友人として受け容れることは できない。

目的が 敵を 創り出す。

もし生に なにかを期待したら、あなたは 生に対して自分を 押し付ける ーー 自分に 生が起こるのを けっして許さない。

タントラによれば、物事が起こるのは、あなたが それを期待しない ときだ。

物事が起こるのは、あなたが それを強制しないときだ。

物事が起こるのは、あなたがそれを 追いまわさない ときだ。

 

  それは 成り行きであって、結果ではない。

「成り行き」と「結果」との 違いを よく認識するように。

結果とは 意識的に求める もので、成り行きとは 副産物だ。

 

 

02 おわり…03へ つづく

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社