saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第六章「質疑応答」03

 ーー 第一の質問 ーー 03

( それは 成り行きであって、結果ではない。

「成り行き」と「結果」との 違いを よく認識するように。

結果とは 意識的に求める もので、成り行きとは 副産物だ )

 

たとえば私が「どんな遊びでもいいから、遊んでいれば、その成り行きとして幸福になる」と 言ったとすれば、あなたは結果を求めて それをやろうとする。

ところが 私が言ったのは、成り行きとしての幸福であり、結果としての幸福ではない。

 

「成り行き」という意味は、真に遊びの中にいたら 幸福が起こるということだ。

ところが いつも幸福のことを考えていたら、それは結果になってしまい、幸福はけっして起こらない。

結果とは 意識的努力であり、成り行きとは 副産物だ。

もし 遊びの中に 深く入ったら、きっとあなたは 幸福になる。

ところが 幸福に対する まさにその期待や 意識的願望のせいで、あなたは遊びの中に 深く入れなくなる。

結果に対する願望が 障害となって、あなたは幸福になれなくなる。

 

  幸福とは結果ではない。

成り行きだ。

だから私が「愛したら幸福になる」と言っても、その幸福は 成り行きであって、結果ではない。

だからもし あなたが「幸福になるには 愛さなければならない」と 考えたら、そこからは なにも起こらない。

すべては 偽物となる、そもそも なにかの結果のために愛する というのは ありえない。

愛は 起こる !  

その背後には なんの動機もない。

 

  動機が あったら、それは 愛ではない。

愛以外の ものだ。

もし私に 動機があって、「私は幸福を求めるゆえに、あなたを 愛する」と 考えたとしたら、この愛は 偽りだ。

そして 偽りであるがゆえに、幸福は その結果として現れない。

幸福は やってこない、不可能だ。

でも なんの動機もなく あなたを 愛したら、幸福は 影のようについてくる。

 

  タントラによると、受け容れの後には変容がやってくる。

しかし受け容れを 変容の技法としてはいけない。

それは 間違いだ。

変容を 求めないことに よってのみ、変容は 起こる。

もし変容を求めたら、その欲求 そのものが 障害となる。

もし 受け容れたら、もはや なにが耽溺でなにが抑圧かという問題は なくなる。

 

  こういう問題が起こるのは、全体を 受け容れる覚悟がないからだ。

受け容れてごらん。

耽溺するがままに、それを 受け容れてみる。

もし 受け容れたら、あなたは 真ん中に投げられる。

あるいは 抑圧するがままに、それを 受け容れてみる。

受け容れがあれば、あなたは 真ん中に投げられる。

受け容れたら、極端にとどまることはありえない。

「極端」とは なにかを否定することだ ーー なにかを 受け容れ、なにかを否定することだ。

「極端」とは なにかに味方し、なにかに敵対することだ。

どんな場合であれ、なにかを 受け容れるやいなや、あなたは 真ん中に投げられる。

もはや 極端にとどまることはなくなる。

 

  だから、なにが抑圧で なにが耽溺か という観念的理解は、きっぱり捨て去ることだ。

それは ナンセンスであり、なんの役にも立たない。

肝心なのは 受け容れることだ ーー 自分が どこにいようとも……。

もし自分が 耽溺の中にいたら、それを 受け容れる。

なぜ それを恐れるのか。

 

 

 03おわり…04へ つづく

 

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社