saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答「六日目の朝」by OSHO

「六日目の朝」03

(そして 自我(エゴ)は 

拒否されるより 何もしないほうがいい と 言う。)

 依存と拒否―――拒否の可能性……

それに もう一つ。

これは もっと根が深いが

セックスの中では、人は 動物のようになる。

これは 人間の自我(エゴ)を ひどく傷つける。

なぜなら、そうなったら、犬の交尾と あなたのセックスとのあいだには ほとんど ちがいがなくなるからだ。

どうちがうかね ? 

突然 あなたは 動物のようになる。

 

そして説教屋や 道徳家たちは こう言いつづけるのだ。

動物には なるな !  

動物のようには なるな ! 

これは 最大級の非難だ。

ほかの どんなことでも、セックスの中でなるほどには あなた方は動物的にならない。

あなた方が 自然でいられることなど ほかにはないからだ。

これ以外の どんなことでも あなた方は不自然だ。

 

 たとえば 人は食物を食べる……

私たちは 食べることに関して あまりに洗練されてしまって、もう動物のような食べ方などしない。

基本的な事柄は動物と同じだ、が、食卓をしつらえたり テーブルマナーがあったり、食物のまわりに 人がつくりあげた その文化全体、礼儀礼節、これは人を 動物から区別するためのものだ。

動物たちは 独りで食べることを 好む。

そこで、どの社会も 各人の頭(マインド)の中に 独りきりで食べるのはよくないこと という考えをたたきこむ。

他と わかち合う―――家族とともに食べる、友達と一緒に食べる、客を招いて食事する……

客や、友人や 家族に 関心のある動物なんて いない。

食べるときには動物は 誰にも何にも 近よってほしくない。

まったくの孤独の内に入っていく。

もし人が 独りで食べたがる としたら

あなた方は、あの人は動物みたいだ、わかち合いたくないんだ、と 言う。

が、その人の食習慣は自然であって、洗練されていない というだけのこと。

  食物をめぐって 私たちは 洗練されすぎてしまった。

そこで 空腹ということは あまり重要ではなくなって

味覚のほうが ずっと大事になってきた。

動物は味を どうのこうの言いはしない。

空腹感……、飢えとは 一つの基本的な要求だ。

飢えが満たされたら、動物は 満足する。

しかし 人間はそうはいかない。

まるで飢えなど 肝心なことではなく、何か別なことのほうが大事であるかのようだ。

味こそがより大切なもの

マナーこそ大切なこと

何を食べるかより、どのように食べるかが 大切―――

 

 ほかのあらゆることにおいても

人は 自分たちのまわりに 独自な 人工的な世界を つくりあげてきた。

 

 動物たちは 裸だ……

だから 私たちは裸で いたくない。

そして もし誰かが 裸でいたら

その人は突然 人間の文明に 全面的な揺さぶりをかけてくる。

文明を その根底から切ってしまう。

だからこそ

世界中いたるところで、裸体の人々に対する敵愾(てきがい)心が これほどにも強いのだ。

街の中を裸で 歩きまわってごらん。

誰を 傷つけるわけでもない

誰に対して暴力を はたらくわけでもない

あなたは まったくもって純真だ。

だが

あっという間に 警察がかけつける

周囲全体が 動揺し騒ぎたてる

あなたは捕らえられ、こづかれながら  ぶ ち こ ま れ る  ことになる―――

ところが あなた自身は まったく何一つ していない ! 

犯罪というのは あなたが何かを したときに起こるもの

あなたは 全然 何も していない……

ただ 裸で歩いただけ―――

 社会はいったい なぜそんなに 腹を立てるのだ ? 

殺人犯に対してさえ 社会は これほど怒らない。

これは おかしな話だね。

裸の人間に対しては 社会は かんかんになるのだから。

これは

殺人のほうが まだ 人 間 的 だからだ。

動物のあいだに殺人事件はない。

動物たちは 食べるために殺すことはあっても

謀(はか)って殺害することは けっしてしない。

それに、動物たちは自分と同じ種族を 殺しはしない。

同族を殺すのは 人間だけだ。

したがって

殺人は  人 間 的 であって、社会は これなら受け容れることが できる。

が、裸体は……

これは 社会には受け容れがたい。

というのも、裸の人間は、突如として 自分たちもまた動物なのだ ということを 気づかせてしまうからだ。

衣服の背後に どのようにうまく隠しても

動物は そこにいる。

裸の、素っ裸の動物は そこにいる。

裸の猿は そこにいるのだ―――

  あなた方が 裸体の人に 敵対するのは

彼が 裸だから ではない。

彼が あなた方に 自分の裸を思い起こさせるからだ。

そして それは 自我(エゴ)を 傷つける―――

衣服を 身に着けることで 人間は 動物でなくなる

食習慣やマナーに従うことで 人間は動物でなくなる

言語や道徳、哲学や宗教をもつことで

人間は 動物でなくなる……

 

 もっとも宗教的なこと

それは 教会や寺院に行って 祈ること。

なぜ これがそんなに宗教的なことなのだろう ? 

それは 動物は教会などに行かないし 祈りもしないからだ。

これは まったく人間的な行為

寺院に行って祈る……

これは、あなたは動物ではない という はっきりした区別をつけるものだ。

 ところが

セックスのほうは 動物行為―――

何を あなたがしようとも

どのように それを隠そうと

そのまわりに 何を築きあげようと

基本的な事実は 動物的で ありつづける。

そして あなたが その中に入っていくときには

あなたは 動物のようになるのだ―――

 

 この事実ゆえに

多くの人たちが セックスを楽しめないでいる。

彼らは 完全に動物に なりきれない。

彼らの自我(エゴ)が それをゆるさない。

 

 

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