saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答「あなた自身が問題……」by OSHO

「あなた自身が問題……」06

( それは あなたにもまた起こりうる。

だが、そこに希望をいだいてはならないよ。)

むしろ、肝心な点を見て 希望をすべて落とすことだ。

希望を 絶やしなさい

完全に  絶 望 するがいい。

完全に絶望する というのは むつかしいことだ。

何回となく あなた方は 絶望状態に陥る。

それらは けっして完全ではない。

一つの希望が落ちて 絶望的に感じるとしても、すぐさま それを補充するために もう一つ別の希望を いだくのだ。

と、その絶望感は 消え失せる。

 

 人は

一人の導師(マスター)から また別の導師(マスター)へと 渡り歩くが、これは 一つの希望から次の希望へと移り行くことにほかならない。

人は 導師(マスター)の許(もと)へ 希望をいだいて出かけていく。

その慈悲をもってして、そのエネルギーをもってして

師は ものごとを 起こらせてくれるのではないかと……

そして試みたり、非常に緊張して待ったりする。

というのも

希望する精神(マインド)は けっして楽にしていられないからだ。

それに また非常にもどかしげに待つ、というのも、希望でいっぱいになっている精神(マインド)には 忍耐することが できないからだ。

それから また そういう人たちは 落ち着きを失ってくる。

なぜなら 何一つ 起こってこないからだ。

となると、この師は まちがっている ということになって

また別の人の許へ 移って行く。

これは もう

一人の導師(マスター)から 次の導師へと動いている というより、一つの希望から次の希望へと 動いていることだ。

人は 一つの宗教から次の宗教へと 渡り歩く。

改宗や転向があるのは、ただただ希望のゆえだ。

あなた方は 幾世にもわたって そんなことをつづけていくことができるし、事実、今まで ずっとそうやってきた。

 

 さあ

要点を見ようとしてごらん ! 

 

これは、導師(マスター)が どんな人かの問題でも、手法が 正しいかどうかの問題でもない。

これは、直接的な洞察の問題だ。

 つまり、現象の内部に即座に浸透していくこと―――

何が 起こっているか ? 

なぜ 希望するのか ? 

なぜ希望することなしには いられないのか ? 

そしてまた

そう希望することから 今まで いったい 何を得たか……? 

 それを 見るがいい。

見えたら それは ひとりでに落ちてゆく。

あなたは それを落とせと求められてさえいない。

 

だからこそ 私は簡単だと言うのだ。

 

そしてまた 同時に 私は

それがきわめて むつかしいこともよく知っている。

むつかしい というのは あなた方のゆえ

また、簡単だというのは それ自身のゆえだ。

現象は 簡単なものだが

あなた方が むつかしい―――

 

 それに これはいつでも起こりうる。

これはいつでも起こりうる と 私が 言うときには

〈解脱〉の現象、〈無我〉の現象には、起因となるものが まったくないという意味で 言っている。

原因は いっさい必要ない。

 それ は 多くの原因理由の成果でもなければ

何かの 副産物でもない。

それは 単純なる看破―――

罪人にさえ 起こりうる、が

聖者であっても 起こらないかもしれない……

したがって、必要条件など ほんとうにいらない。

もし見ることさえ できたら 罪人にだって起こりうる

もし彼が希望することを やめたら

得るものも 成就できるものも 何一つないと 感じとり

 こ と 全体が まったく馬鹿げた 一つのゲームにすぎないと 見えるようになったら

それは 起こりうる――― ! 

だがそれは、聖者であっても 起こらないかもしれない。

なぜなら聖者は 成就を求めて試みつづけるからだ。

聖者は まだ絶望していない。

 こ の 世 は 無意味になった かもしれないが、 あ の 世 が 意味あるものになってきた。

彼は この地上からは 立ち去らねばならない と 気がつきはしたが、 まだ 彼方に天国がある……、彼は それを 成就しなければならない……

 

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