saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答「あなた自身が問題……」by OSHO

「あなた自身が問題……」04

( 偽りであるがゆえに 努力はいっさい必要ない。

その正体を見るだけで、それは消えてゆく。)

 

 男が一人 駆けている―――

死ぬほどおびえ、恐怖にかられて……

自分自身の影を怖れて駆けている ! 

彼を 立ちど止まらせて あなたは言う。

君は馬鹿だねえ !   それは自分の影じゃないですか。

誰も追いかけている人など いないし、誰も殺そうとしている人などいない

君以外 誰もいないんですよ ! 

君は 自分自身の影を怖れているんですよ ! 

 

 しかし

一度 駆けだしたら、影もまた走りだす―――

速く走れば 影もまた速く走る。

そうなったら論理的な頭は “危険だ !”と言う。

論理的な発想では こう言うだろう。

逃げたかったら、もっと速く走れ もっと速く !   と……

 が

あなたが 何をしようと影は 後ろからついてくる。

そして もしそれを追い払うことが できなかったら

あなたは ますます怖れるようになる。

あなたは すべてを自分自身の中で創作しているのだ。

 もし 私が

あなた方に こう言ったとしたら どうだろう ? 

これは ただの影、誰も追いかけているわけではない―――

そして、あなたはその影を見、その正体に気がついたとしよう

それがどういうことかを 感じる。

と、そのときあなたは

どのようにして この影を落とすのか と 私に訊くかね ? 

何かの手法・方法について 訊ねるかな ? 

ヨーガとか何とか、い か に落とすかを ? 

 

 あなたは ただ笑うだけだろう―――

あなたは それで既(すで)に 落としているのだ。

それが 影にすぎないことを あなたが見る瞬間

誰も追いかけている者など いないことを見る瞬間

それは 既に落ちている――― ! 

 どのようにしてという問いは そこには無い。

あなたは 気持ちよく笑うだけ

全体が まったくのナンセンスだったなあ と……

 

 同じことが 自我(エゴ)に関しても 起こる。

もしあなた方に

私の言っていることの真実性が 見えたら

 そ の こ と は 既 に 起 こ っ た の だ ―――

それ を 見ることそのものの内(なか)で

そのことは 既に 起こったのだ。

もはやそれに関する “いかに?” はない。

それでもなお あなたが

どのようにして ?   と 訊くのだったら

そのときには それは まだ起こっていない ということ。

あなたは まだ その正体を見ていないのだ。

それなのに あなた方はそこに希望をいだく。

なぜなら

あなた方は このエゴのために苦しんできたからだ。

あなた方は 常にそれを落としたいと望んできた。

しかし この願望の半分は頭から来ているものだ。

 

 あなた方の 苦しみのすべてはエゴから来ている―――

だが 楽しみの すべても またエゴを通して来る。

たとえば群衆が あなたを喝采する

あなたを 高く評価する……と、あなたは いい気分だ。

これが あなた方の知っている 唯一のよろこび

エゴは高揚し、頂点にまで達する

それは エヴェレストになる―――

あなたは 大いにそれを楽しむ。

 

 すると そのうちに群衆は あなたを非難する。

あなたは 傷つく。

群衆は 無関心になる……

あなたはそれで打ちくだかれる。

あなたは 谷底に、憂うつの中に ころがり落ちる。

 

あなた方は エゴを通して楽しみを得てきた。

また それによって 苦しんできた。

その苦しみのゆえに あなた方は エゴを落としたい。

しかし

その楽しみのゆえに あなた方には 落とせない。

だから、私が

自我(エゴ)とは簡単に落とすことができるもの と 言うとき

あなた方は 希望をいだくのだ。

その希望は 私が創りだしているのではない。

あなた方の 貪欲さが そのように捉えるだけ。

それは 覚醒とはならずに、別の新しい欲望となる。

満足感を求める 新しい探索だ……

 

 それに また あなたはこう感じる。

方法が あるようだ、エゴを落とす手助けを、エゴがもたらす あらゆる不幸を落とす手助けをしてくれる人が ここにいる……

 だが、あなたには

エゴがもたらす あらゆる快感もまた 落とす用意があるかね ?    もし 用意があるのだったら、それはきわめて簡単なこと、影を落とすのと同じようなものだ。

 しかし

その半分だけを 落とすということはできない

その半分だけを 持ち歩くこともできない。

全体が消え去るか

それともまた全体が残るかの どちらかだ。

ふむ?

 これが 問題だ。

そしてまた これがむつかしいところ。

 

 あなた方の 楽しみと苦しみの すべてが関わっているのは ただひとつの現象だ。

ところが あなたは 楽しみのほうは取っておいて

苦しみだけ 落としてしまいたい―――

あなたは 不可能なことを追い求めている ! 

それなら むつかしいのは 当然だ、いや むつかしいだけではない。

それは 不可能だ――― ! 

それは あなたに起こるはずのないこと。

何をしようと それは不毛だ。

どんな結果も そこからは生じてこない。

 

 あなた方は そこに希望を一つの天国を

覚者(ブッダ)の強烈な至福(よろこび)を創りあげる。

私に耳を かたむけていると

あるいはまた

エスたちやブッダたちに 耳をかたむけていると

希望が たしかに生まれてくる。

だが私が その希望を創っているのではない。

あなた方が 創っているのだ。

あなた方が 希望を 投映しているのだ。

 

 これが 問題になる、この複雑さが――― ! 

どんな希望も エゴにとっては また食料となる

この、楽園に到ろう、天国に到ろう、〈光明〉を得て 覚醒に到ろうという希望でさえ 希望であることに変わりはない。

そして どんな希望も エゴにとっては 食料だ。

誰が いったい覚醒しようとしているのかね ? 

光明を得ようとしている その人そのものが問題だ。

覚醒 す る 人 など誰もいない。

 

それは起こること――― ! 

誰も 光明を 得 る 、覚醒 す る 人などいない。

その部屋が まったく 空(から)になったとき それは 起 こ る ! 

解脱しようとする人が もう いなくなったとき

〈光明〉は そこにある――― ! 

 

 

04おわり 05へ つづく