saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 16

Pp450ー452

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(16)

 

『 労なくして

   ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば 』

 

 それに、彼は そう言わないわけには いかない。

なぜなら 彼は、ゆったりとした 自然な境地につくからだ。

妻や 子供たちから逃げ出すことは 自然じゃない。

まして、全く ゆったりなんかじゃない。

妻や 子や 友や世間を 後にする人間は、緊張するだけで ゆったりとはできない。

捨てようという まさにその努力の中に、緊張が しのび込む。

自然である ということは、どこであれ 自分が 今いるとわかった  そ   こ   に   い   る  ということだ。

 

 もしあなたが 夫であるのならーーーそれもいい。

もしあなたが 妻であるのならーーービューティフルだ。

もしあなたが 母親であるのならーーー結構だ。

そうでなくちゃいけない。

それが なんであれ 自分が今いる 場   所を、今の自分を、そして自分に起こっていることのすべてを 受   け   容   れ   て ごらん。

それで はじめて、あなたは「ゆったりと自然に」なれる。

さもなければ、それは空念仏にしかすぎない。

あなた方の いわゆる僧侶や サドゥー、つまり世間から 逃れた人たち。

あちこちの 寺院におわす、実際には 臆病者にしか すぎない人間たちには、ゆったりと自然であることなんか できない。

彼らは  つ   っ   ぱ   っ   て いる ほかない。

彼らは ある不自然なことを しでかした。

自然な流れに 逆らったのだ。

 

 そう、何人かの人々にとっては それが自然であり得る。

私は 別に自分を市場にしばりつけろと 言っているわけじゃない。

そんなことをしたら 反対の極端を やることになるからだ。

そうしたら、あなたは またまた同じ愚を犯す。

何人かの 人たちにとっては、僧院に いるのは 完全に自然なことであるかもしれない。

そういう人たちは 僧院にいなくてはいけない。

何人かの 人たちにとっては、山に こもるのが完全に自然なことであるかもしれない。

そういう人は 山にいなくちゃいけない。

 

 判断の ものさしとして 心 (マインド)に とめるべきは、「ゆったりと自然で」あることだ。

もしあなたが 市場にいて 自然なら、ビューティフルだ。

市場も また神聖なり。

もしあなたが ヒマラヤにいて ゆったりと自然に感じるのなら、ビューティフルだ。

どこも おかしくない。

ひとつだけ 覚えておきなさい。

 “ ゆったりと自然であれ ” ーーー。

 

 無理をしたり、自分の実存の中に緊張を つくろうとしたりしないこと。

リラックス だ。

 

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」

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