saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 13

Pp432ー436

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(13)

 

『二元性を超ゆるは王の見地

   散乱を征服するは王者の行(ぎょう)

   行(ぎょう)なき道こそすべてのブッダたちの道なり』

 

 稽古するべきものなど何もない。

習慣をつくり出すのは〈稽古〉だからだ。

人は もっと 覚   醒 すべきなのであって、もっと 腕   を   上   げ  る べきなんじゃない。

美しいものは 自然な内発性から 起こる。

上達からじゃない。

 

 あなたは 愛を習い覚えることもできる。

何らかの トレーニングを積むこともできる。

アメリカでは いくつか、愛のためのトレーニングコースをつくることが考えられている。

人々が どうやって愛するか ということすら 忘れてしまったからだ。

これは 本当に おかしい。

鳥や けものたちや 木々でさえ、聞きもせず、学校に行きもしないで ちゃんと愛する。

それなのに 人間はといえば、大勢の人が 私のところヘやって来て・・・

 

 つい数日前、ひとりの若者が手紙をよこした。

彼はその中で、「あなたの おっしゃることはわかります。 でもどうやって 愛するのですか ?   どうやって 前に出るのですか ?  どうやって女性に 接近するのですか ?」と 言う。

馬鹿ばかしいような話だ。

だが、我々は 自然でゆったりとしたやり方を 完全に忘れてしまったのだ。

愛ですら トレーニングなしでは 不可能だとはーーー。

 

 しかし、もし仕込まれたりしたら、あなたは全く 醜悪になってしまうだろう。

そうしたら あなたのやるあらゆることは、そのトレーニングの切れはしでしかないからだ。

それは 本物じゃあるまい。

それは 演技だ。

真実の生じゃあるまい。

それは ちょうど俳優たちそっくりだろう。

彼らは 愛をでっちあげる。

彼らは 愛にあふれた動作をする。

しかし、愛というものに関する限り、俳優たちこそ 最大の失格者であるのをご存知だろうか ?  

彼らの愛情生活は ほとんど常に破産だ。

 

 これは あり得べからざる話だ。

二十四時間、彼らは大変な数の女性たちと、数えきれない筋書きで、いろいろ違った趣の 稽古をいるのだからーーー彼らは プロの愛人だ。

恋に落ちたら 彼らは完璧でなくてはいけない。

ところが、恋に落ちたら最後、彼らは常に破綻する。

俳優たちの愛情生活は 常に破産だ。

どういうことだろう ? 

 

〈稽古〉だ。

稽古しすぎたのだ。

もう ハートが働かない。

彼らは ただ中身のないジェスチャーを し続けるだけだ。

キスをするーーーだが そこに本当のキスはない。

ただ 唇が くっつくだけだ。

唇だけしか 出会わない。

内的なエネルギーの移動は そこにない。

彼らの唇は 閉ざされていて 冷たい。

もしも 唇が冷たく閉じていて、そこからエネルギーが放出されていなかったら、キスほど 醜いものはない。

不衛生だ。

それは ただ何百万という 細菌や黴菌(ばいきん)や 病原菌の移動にすぎない。

それだけだ。

 

 キスも、もし 内的なエネルギーが介在しなければ 醜いものだ。

女を、あるいは男を 抱くことはできても、唇がぶつかり、からだが からまるばかりで、そこに内的なエネルギーの跳躍はない。

エネルギーが 存在しないのだ。

ただ 中身のないジェスチャーを しているだけのこと。交わることだってできないことじゃない。

 

 あなたは あらゆる愛の動作を することもできる。

しかし、それは体操と 言ったほうが似つかわしく、あまり愛とは 言い難い。

覚えておきなさい、稽古は 生を殺す。

生というものは、稽古されないほうが もっと生き生きしているものだ。

それが どんなパターンも持たず、どんな強制された規律もなしに、あらゆる方向にあふれるほうがーーー。

すると それは それなりの秩序と規律を持つ。

 

 そして

『 行(ぎょう)なき道こそすべてのブッダたちの道なり

   その道を踏む者、ブッダフッドに至らん 』

 

 さあ どうする ?   もし 修行なしが 道ならば、そのときはどうする ? 

そしたら、ただ 自然発生的に 生きなさい。

なんで 恐れる ⁉

なぜ 自発的に生きることを そんなに怖がる ? 

もちろん危険は あるかもしれない。

難儀も しなければなるまい。

でも、それでいいじゃないか ! 

生というものは 鉄道線路みたいなものじゃない。

汽車なら 入れかわり立ちかわり 同じ線路の上を 何回も何回も走る。

生は 川のようなものだ。

それは 自分で自分の道を つくっていく。

それは 水路じゃない。

水路は うまくない。

水路といえば習慣の人生の ことだ。

 

 危険は ある。

だが、生は 危険なものだ。

危険は 生に含まれているものであって、それを知らなくていいのは 死んだ人だけだ。

人々が死んだみたいになってしまうのは そのせいだ。

あなた方の家は 墓場と 言ったほうが似つかわしい。

 

 あなた方は あまりにも安全性に こだわりすぎている。

そして、安全への過剰なこだわりは 死につながるものだ。

生というのは 安全じゃないのだからだーーーそれは そうなのだ。

それについて どうすることもできない。

誰も それを安全にすることなんかできない。

安全性などというのは すべて幻想だ。

 

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」

(13)おわり (14)ヘ つづく・・・