saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「存在の詩」OSHO (OEJ books) 14

Pp436ー441

(…あなた方は あまりにも安全性にこだわりすぎている。 そして、安全への過剰なこだわりは 死につながるものだ。 生というのは安全じゃないのだからーーーそれは そうなのだ。  それについてどうすることもできない。  誰もそれを安全にすることなんかできない。  安全性などというのはすべて幻想だ )

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(14)

 

 一人の女性が 今日から あなたを愛する。

明日は・・・誰が知る ? 

どうして明日のことに 安全でいることなんかできる ? 

あなたは 法定に行って 登録し、彼女が 明日もまた自分の妻でいる という法的な拘束をかけるかもしれない。

もしかしたら 彼女は、その法的な拘束によって あなたの妻でいるかもしれない。

だが 愛は 消え去り得る。

愛は 法律なんか知らない。

そして 愛が消え失せていながら、妻が妻でい、夫が夫でい続けるとき、その ふたりの間にあるものは 死だ。

 

 安全のために、我々は 結婚をつくる。

安全のために、我々は 社会をつくる。

安全のために、我々は いつも決められた道の上を進む。

生は 野生だ。

愛は 野生だ。

そして神は 絶対的に野生だ。

〈彼〉は 決して、あなた方の つくった〈庭〉に はいって来はしない。

〈彼〉は 決して、あなた方の〈家〉になんか はいって来ない。

そんなものは 小さすぎる。

あなた方の お決まりの道の上では、決して〈彼〉に 出会うことなんかできない。

〈彼〉は 野生だ。

 

 覚えておきなさい、タントラは 生は野生だ と言う、 人はそれを すべての危険と困難を冒して 生きなくてはならない。

そして それは 素晴らしいことだ。

そのとき、そこに 冒険があるのだからーーー。

 

 自分の人生を 決まり切ったパターンに はめ込もうとしないこと。

それ が それ自身のコースを取るのを 許すのだ。

すべてを 受け容れなさい。

受容を通して 二元性を 超えなさい。

そして、生が それなりの進路を取るのを 許すのだ。

そうすれば あなたは たどり着くだろう。

必ず たどり着くだろう。

この 必ず というのは、あなた方を 安心させようとして言っているわけじゃない。

それが 事実だからこそ 言うのだ。

これは あなた方の 安全性の保証じゃない。

野生の者は 必ず たどり着くのだ。

 

 

『 はかなきかなこの世

   幻や夢のごと、そは実体を持たず

   そを捨てて血縁を断てよ

   欲望と憎しみの糸を切り

   山林にありて瞑想せよ

   労なくして

   ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば

   間もなく汝は マハムドラーにたどり着き

   無達成なるものを達成せん 』

 

 この経文は とても深く 理解されなくてはならない。

なぜなら、誤解があり得るからだ。

ティロパの この経文に関しては、いままで 多くの誤解が あった。

それどころか、私以前に 注釈をした人たちは全部、肝心なポイントを逸してきた と 言ってもいい。

それにはわけがある。

 

 この経文は言う

『 はかなきかなこの世 』

 

 この世界は、夢がつくられているのと 同じ材質で できているにすぎない、 と。

夢と この世と、そこには なんの違いもない。

起きていても 眠っていても、あなたは 自分だけの 夢の世界に生きている。

覚えておきなさい、世界は ひとつだけじゃない。

この世には 人がいるのと同じ数だけ たくさんの世界があるのだ。

誰もが みな自分だけの世界に 生きている。

ときとして、我々の世界は 出会いぶつかる。

ときとして、それは 溶け合う。

ん ? でも、我々は 自分の世界に 閉じ込められたままなのだ。

 

『 はかなきかなこの世ーー心の創作ーー

   幻や夢のごと、そは実体を持たず 』

 

 これは 物理学者たちの言うところでもある。

それは なんの実体も持たない。

ほんのここ 三〇〜四〇年の間に、「物質」という言葉は、物理学者のボキャブラリーから 完全に消え失せてしまった。

七五年前、ニーチェは 神は死んだ と宣言した。

それも、彼が それを言ったのは 物質しか存在しない ということを強調するためだ。

ところが、それから 一世紀もたたないうちに、いやニーチェの死後 たった二五年でーーー彼は 一九〇〇年に死んだーーー

一九二五に 物理学者たちは こういう理解に達した。

我々は 神のことは何も知らないが、ただひとつだけ確かなことがある。

物質は 死んだ、と。

 

 あなた方の まわりには 物質的なものなんか 何もない。

すべては ただの 波動(バイブレーション)だ。

交錯する たくさんの 波動(バイブレーション)が〈もの〉という幻覚を 生み出す。

それは 映画を見るのと 同じことだ。

スクリーンの上には 何もない。

あるのは 交錯した電気光線だけだ。

それが あれだけの幻覚を つくり出す。

しかも、いまでは 三次元映画というものまで 現れた。

それは 完璧な 三次元の幻覚をつくり出す。

 

 全世界は スクリーンの上の映像と 全く同じだ。

なぜなら、それは すべて電気現象にすぎないのだからーーーただ あ   な   た だけが本物だ。

ただ その観照者だけが 本物であり、あとは すべて夢なのだ。

そしてブッダフッドとは、こうした 一切の夢を あなたが超越し、そこに 見られるべき何ものも  残らない、 ただ  見る者だけが 静かに坐るーーーそういう状態を 言う。

 

 何も ない。

見られるべき どんな対象もない。

ただ  見   る   者  だけが 残る。

そのときこそ、あなたは ブッダフッドに 到達している。

現実 (リアリティ)にーーー。

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」

(14)おわり (15)へ つづく・・・