saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 05

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(05)

Pp412ー416

 

 怒りを押し殺して 慈悲深く行動することはできる。

しかし、あなたは 自分でそれを無意識の中ヘ押し込め、それは依然として そこにあることを よくご存知だ。

いつなんどきにでも、ちょっと気を 抜けば、それは湧き上がって来るだろう。

それは 表面に出て来るだろう。

すると 人は絶えず それを押し殺していなければならなくなる。

 

 もしも「良くないこと」を 絶えず押し殺していなければならない としたら、それは なんとも醜悪な現象だ。

そんなことをしたら 一生棒に振ってしまう。

いつ あなたは〈聖なるもの〉を 楽しむ ?  ゆとりもなければ時間もない。

あなたは 怒りや 強欲や 性欲や 嫉妬や、そういう何千というものと 戦っていて、それら幾千の敵は まぎれもなく そこにいる。

だとしたら、絶えず それを見張っていなくてはいけない。

リラックスなんて できるわけがない。

どうして「ゆったりと自然に」など なれる ? 

 

 あなたは いつも緊張し、張りつめ、いつも戦闘態勢で、びくびくしていることだろう。

ヨーギたちは 眠りさえも恐れるようになる。

ん? だって、眠りの中では 見張っていることができないからだ。

眠りの中では、彼らの押し殺したものが 全部表面に出てくる。

起きている間は 禁欲をなし遂げているかもしれない。

が、 夢の中では それが不可能になる。

世にも美しい女たちが 内側に漂って来て、そのヨーギには どうすることもできない。

そういう美しい女たちは ヒンドゥー教の説話に書いてあるような、どこかの天国から やって来る、神が送り込んだものなんかじゃない。

なぜ 神様があなたなんかに 興味を持つ必要なんかがある ? 

 

 誰に 何の害を与えるわけでもなく、ただ目を閉じてヒマラヤに坐り、彼自身の問題と戦っている かわいそうなヨーギ。

なんで神様が 彼に興味を持たなくちゃいけない ? 

その上 なぜ神様が ウプサラ(天女)を 送り込んで、彼を道からそらさなくちゃいけない ?  どうして ? ーーー

 

 誰も いやしない。

誰が誰を送る必要もない。

そのヨーギが 自分で自分の夢を つくり出しているだけだ。

何であれ あなたが抑圧したものは、必ず夢の中で 浮かび上がって来る。

そういう夢は ヨーギが 否定したその部分だ。

それに 夢見の時間も、起きている時間と変わらず あなたのものだ。

だから、起きているときに 女の人を愛そうと、夢の中で愛そうと どこにも違いはない。

あり得ないのだ。

それは 女の人が そこにいるか どうかという問題ではなく、問題は あなただからだ。

 

 写真を愛そうが 夢の映像を愛そうが、あるいは 本当の女を愛そうが、実際のところ、そこには何の違いもない。

あり得ないのだ。

なぜなら、本当の女性だって、内側では やはり映像にすぎないのだからーーー。

あなたには 本当の女性などわからない。

映像がわかるだけだ。

 

 ここに 私がいる。

あなたは どうして私が本当に ここにいると わかる ? 

もしかすると ただの夢かもしれないよ。

あなたは ここに私がいるのを 夢見ているのだ。

どこに 違いがある? 

私がここにいるのを 夢見ているのと、現実に私が ここにいるのを見るのとーーーどうやって区別をつける ? 

何が 規準になる ? 

というのは 私が ここにいようと いまいと、どこも違わないからだ。

あなたは 私を 心の中で見ているのだ。

 

 夢にしろ 本当にしろ、そのどちらの場合でも、あなたの眼が 光線を取り入れて、あなたの心が 誰かが そこにいる と解釈する。

あなたは 本   当   の   人  を 見たことなんか 一度もない。

見られない のだ。

ヒンドゥー教徒たちが、 こ   れ は マーヤだ と言うのは そのためだ。

これは 幻の世界なのだ。

 

 ティロパは 言う “はかなきかなこの世”ーーーこの世界は幽霊じみた、幻覚じみた、夢もどきのものだ、 と。

なぜだろう ? 

それは、夢でも現実でも 何も変わりがないからだ。

どちらの場合でも、あなたが自分の心の中に 閉じ込められてしまっていることには 変わりがない。

あなたが目にするのは 映像だけだ。

あなたは 現実(リアリティ)など 見たことがない。

見られないのだ。

 

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(05)

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