saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 04

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(04)

Pp408ー412

 

 どんな習慣も 形式になってしまってはいけない。

私は 混沌の中に生きろ と言っているわけじゃないよ。

だが 習慣で生きては 駄目だ。

たぶん、 内発的に生きるということによって、あなたのまわりに、ある生き方が できてくることはあるかもしれない。

しかし、それは 強制されたものじゃない。

 

 もし あなたが 毎日 朝を楽しみ、習慣としてでなく 楽しみを通して早起きをし、それを毎日 続け、ことによっては 一生続けようとも、それは 習慣じゃない。

あなたは自分に 起きることを強制しているんじゃない。

それは 起  こ  る  の だ。

それは ビューティフルだ。

あなたは それを楽しむ。

あなたは それを愛す。

 

 もしそれが 愛から起こるものだったら、それは 様式(スタイル)じゃない。

それは 習慣でもなく、条件づけでもなく、つくられた死んだものでもない。

習慣が 少なければ少ないほど、あなたは より生き生きとしているものだ。

何も 習慣がなかったら、あなたは 完璧に 生きているだろう。

習慣というものは あなたを死んだかさぶたで覆ってしまう。

そしてあなたは、ひとつぶの種子のように閉ざされ、封じ込まれてしまう。

殻が あなたを固く包む。

 

 柔軟でいなさい。

ヨーガは あなたに、悪しきすべての反対を培え と教える。

邪と戦い、善を達成しろ、 と。

暴力というものがある。

あなたの 内にある暴力を 抹殺し、非暴力になれ、非暴力を 培え。

つねに 反対を行い。

その反対を 強引に自分のパターンにしろ。

これが 兵隊の道ーーー小さき教えだ。

タントラは 大いなる教え、至高のものだ。

 

 タントラは 何と言うだろう ? 

タントラは、自分の中に どんな戦いも作り出すな、 と 言う。

両方を 受け容れるのだ。

すると、その受容を通して ひとつの超越が起こる。

勝利ではなく 超越だ。

ヨーガには 勝利がある。

タントラに そんなものは ない。

タントラに あるのは 超越だけだ。

あなたは 暴力に対して非暴力になるのじゃない。

ただ その両方を 超えるのだ。

あなたは ただ、第三の現象ーーー 観 照 者 となる。

 

 あるとき私が 肉屋の店先に座っていた。

そのあるじは とてもいい男で、私は よく彼を訪ねて行ったものだ。

もう夕方で、彼が ちょうど店を閉めようとしていたところへ、ひとりの男が やって来て めんどりを一羽 欲しいと言う。

私は その数分前、あるじが 今日は全部売り切れて、あとには めんどりが 一羽 残っているだけだ と話していたのを知っていた。

 

 そこで あるじは 喜びいさんで店の奥へ はいって行くと、めんどりを持ってきて、はかりの上に放り出し、「五ルピーでさあ」と 言った。

すると男は

「それはいい。でも私は これからパーティを開くんで、友だちが 大勢来るもんだから、このめんどりじゃ 小さ過ぎると思うんだ。もうちょっと 大きいやつが 欲しいな」と 言う。

 

 さあ、私は、 もう一羽も 残っていなくて、それが ただ一羽きりだ というのを知っていた。

肉屋は 少し考え込むと、そのめんどりを 持ってはいり、しばらく あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、また その同じめんどりを持って 戻って来るなり、それを はかりに放り上げて「七ルピーでさあ」と 言ったものだ。

男は 言った。

「あのねえ、 それ両方もらうよ」

 

今度は さすがの肉屋も 本当に進退きわまった。

 

 そして タントラは、その同じ苦境を〈全体〉に、〈存在〉それ自体に つきつける。

タントラも 言う、「それ両方もらうよ」ーーー。

憎しみとは 愛のもうひとつの側面に ほかならず、怒りとは 慈悲のもうひとつ別な側面にほかならず、そして暴力とは 非暴力のもうひとつの顔に ほかならない。

タントラは 言う、「あのね、 それ両方もらうよ。両方とも受け容れるよ」

 

 すると 突然、この受容を通して ひとつの超越がある。

そこには ふたつのものがあるわけじゃないからだ。

暴力と 非暴力は ふたつの別々なものじゃない。

怒りと 慈悲は ふたつの別々なものじゃない。

愛と 憎しみは ふたつの別々なものじゃない。

だからこそ……

 

 あなたも ちゃんと それを知っているし、それを観察しているのに、ただ その事実を認めないほど無意識なのだ。

あなたの愛は 一瞬の間に 憎しみに変わってしまう。

もしそれが ふたつのものだとしたら、どうして そんなことがあり得る ?  一秒も いらない。

この瞬間 愛していると 思えば、次の瞬間 あなたは その同じ人間を 憎んでいる。

朝、愛していた その同じ人を、昼までには 憎み、夜にならないうちに また愛す。

その 愛と憎しみのゲームには とめどがない。

 

 実際のところ、愛と憎しみというのは 正しい言葉じゃない。

愛-憎。怒-慈悲。それは ひとつの現象なのだ。

ふたつの 別々なものじゃない。

愛が憎しみと なり、 憎しみが愛と なり、慈悲が怒りと なり得るのは そのためだ。

 

 タントラは、区別というものは あなたの心によって持ち込まれ、そうしておいて あなたは 戦いを始めるのだ と言う。

あなたが 最初に 区別をつくり出すのだ。

あなたは 一方の側面を 非難し、もう一方を褒めそやす。

あなたが 最初に 区別をつくり出し、それから今度は 戦いを つくり出して、結局 自分で難儀をする。

あたり前だ。

ヨーギというのは 絶えず 厄介事をかかえている。

なぜなら、何を やったところで、その勝利は 最終的なものではあり得ないからだ。

せいぜいが 一時的だ。

 

 

第七話「あのね それ両方もらうよ !」(04)

おわり (05)ヘ つづく・・・