saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「存在の詩」OSHO (OEJ Books) 02

第七話「あのね それ両方もらうよ!」(02)

Pp399ー404

(…地獄なんて どこにもない。

同じように 天国などというものも どこにもない。

ふたつとも トリックだ。

古い 精神療法的概念だ。

絵に描かれた すさまじい地獄の光景は、ものごころついたばかりのときから、子供に恐怖を与えるのに充分だ。

地獄という名前が出ただけで 恐怖が湧き上がる。

そして、その子は 震え上がる。

これは悪い習慣を防ぐ ひとつのトリックにすぎない。

そして、天国もまた 良い習慣を助長するトリックだ。)

 

夢のような快楽や、幸福や、美や、永遠の生命が、あなたが 良いパターンに従いさえすれば、天国に約束されている。

社会が  良   い  と言うことのことごとくに、あなたは必ず 従わなければいけなくなる。

天国 というのは あなたが  良   い  方向に向かうのを助ける。

地獄 というのは、あなたが 悪い方向に向かうのを防ぐためのものだ。

 

 そういう条件反射を使わなかった宗教はタントラだけだ。

というのも、タントラは あなたがロボットまがいの機械ではなく、完全に目覚めた実存の中へと花開かなくてはならないと 言うのだからーーー。

だから、もしあなたに タントラがわかったら、悪いのは〈習慣〉だ。

世の中に 悪い習慣など ひとつもないし、良い習慣など ひとつもない。

〈習慣〉そのものが悪いのだ。

そうして人は、どんな〈習慣〉もないところまで醒めているのが本筋なのだ。

ただ 瞬間から瞬間へと、ギリギリいっぱいの 覚醒の元に 生きる。

習慣によってではなくーーー。

 

 もしあなたが 習慣なしに生きられたら、それが 王道だ。

なぜそれが「王」の道なのだろう ? 

それは、兵隊は服従しなくてはいけないけれども、王様には その必要がないからだ。

王様 というのは 上に立つ。

彼は 命令を与える立場だ。

彼は 誰からも 命令なんかされない。

王様は 決して戦(いくさ)に行くこともない。

行くのは 兵隊だけだ。

王様は 闘士じゃない。

王様は 世の中で 一番リラックスした生を送る。

 

 ただし、これは ただのたとえだよ。

兵隊は服従しなくてはいけない。

王様は ただゆったりと 自然に生きる。

彼の上には 誰もいない。

タントラは あなたの上には 誰もいやしないのだ と言う。

その人に従わなくてはならず、その人から あなたの生のパターンをいただき、その人を見て真似しなければいけない、そんな人などいやしない。

あなたは ゆったりと自然に、流れるように生きればいい。

ただ ひとつ必要なのは 醒めることだけだ。

 

 闘うことによって習慣をつけることはできる。

だが それはあくまでも〈習慣〉だ。

自然じゃない。

世に 習慣は第二の自然なりと言う。

そうかもしれない。

しかし、その「第二」という言葉を 忘れてはいけない。

それは 自然ではないのだ。

それは ほとんど自然に見えるかもしれない。

だが、 違う。

 

 本当の慈悲と 培われた慈悲の 違いはどこにあるのだろう ? 

本当の慈悲というのは〈感応〉だ。

状況があり、そして 感 応 ーーー。

本当の慈悲は つねに新鮮だ。

何かが起こり、あなたのハートが それに向かって流れ込む。

子供が ころぶ。

すると、あなたは駆け寄って 助け起こす。

だが、これは あくまでも 感  応 だ。

ニセの慈悲、培われた慈悲は〈反応〉だ。

 

 このふたつの言葉は とてもとても意味深い。

〈感応 (Response)〉と

〈反応 (Reaction)〉。

感応は 状況に対して生きている。

反応は ただのしみついた習慣にすぎない。

過去に、誰かがころんだら 助ける という訓練をしてあるために、あなたは行って助けはする。が、 その中には なんのハートも こもっていない。

 

 誰かが 川で溺れていると、あなたは駆けつけて その人を助ける。

ただ そうするように教わっている だけのためにーーー。

あなたは 人助けの習慣を培ってある。

だが、そこに あ   な   た   は  かかわっていない。

あなたは 依然として その外にいる。

ハートは そこにない。

あなたは 応えたんじゃない。

あなたは この男、川で溺れているこの男に 応えたんじゃない。

あなたは この瞬間に応えたんじゃない。

あなたは イデオロギーに 従ったのだ。

 

 イデオロギーに従う というのは いいものだ。

万人を助けよ。

人民の下僕となれ。

慈悲を持てーーー。

あなたは イデオロギーを持つ。

そして そのイデオロギーを通じて あなたは 反   応 する。

その行為は 過去から出てくるものだ。

それは すでに 死んでいる。

 

 状況が行為を生み、あなたが 最大限の覚醒をもって それに応えるとき、そのとき はじめてあなたに ある〈美〉が起こる。

もしイデオロギーや古い習慣のパターンから 反応しても、あなたはそこから 何も得はすまい。

せいぜい ちょっぴり、得ることになどならないような自我(エゴ)の満足を 得るだけだ。

 

 あなたは 自分が 溺れた人をを助けた というそのことを、自慢のタネにしはじめるかもしれない。

市場に出かけて行って 大きな声で叫び立てるかもしれない。

「聞いてくれ、俺はひとりの人命を救ったんだーーー」。

あなたは ちょっとした自我(エゴ)の満足を得るだろう。

自分は 何かいいことをやった。

だが、そんなことは得にもならない。

あなたは 自発的であることの大きな機会を ひとつ失ったのだ。

慈悲において自発的である ということの機会をーーー。

 

 もし その状況に 感   応  していたとすれば、何かが あなたの中で花開いたことだろう。

あなたは ある種の静寂を、静けさを、祝福を 感じただろう。

そこに 感   応 が あるときには必ず、内面に 一種の開花を感ずるものだ。

 反   応 の ときは、あなたは死んだままだ。

屍まがいに ふるまう。

ロボットまがいに 行動する。

 

〈反応〉は 醜いものだ。

〈感応〉は ビューティフルだ。

反応は いつも部分的なもの。

反応は決して〈全体〉のものじゃない。

感応は つねに〈全体〉のものだ。

あなたの 全体性が 丸ごと川に飛び込む。

あなたは それについて 考えたりしない。

状況が ただ それを起こらしめる。

 

 もし あなたの生が 感応と自発性の生になったら、あなたは いつかひとりのブッダになるだろう。

もし あなたの生が 反応、死んだ習慣の生になってしまったら、あなたは ブッダみたいには 見えるかもしれないが、ブッダにはなるまい。

あなたは 絵に描いた ブッダだ。

内側では ただの 屍にすぎない。

 

 習慣は 生の息の根を 止めてしまう。

習慣は 生の 敵だ。

 

 

第七話「あのね それ両方もらうよ!」(02)

おわり(03)ヘ つづく・・・