saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7話 ーーー 〈無〉に 帰依する (07)

…( 実存的瞬間とは いまのいまだ
ちょっと 一目 見てごらん
そして それが瞑想なのだ
その 一 目 こそが 瞑想なのだ )

ただ あるひとつのものの
あるひとつの状態の 事実性を見ることこそ瞑想なのだ
瞑想は 何の動機も持たない
したがって それには 何の中心(センター)もない

そして,そこに何の動機も何の中心(センター)も ないために
その中には 何の自己もない

瞑想の中では
あなたは ひとつの中心(センター)から 機能したりはしない
あなたは〈無〉から作動する
〈無〉から出てくる 感応こそ 瞑想のすべてなのだ


心(マインド) が 集中する
と,それは過去から 作動する

瞑想は 現在の中で,現在から作動する

それは〈現在〉への 純粋な 感 応 なのだ
それは 反 応 じゃない
それは いろいろな “結論” から 作動するのじゃない
それは〈現存的なるもの〉を 見ることによって作動する

自分の人生を 観察してごらん
あなたが 結論から動くときには
ひとつ 大きな違いが あるものだ


あなたが ひとりの男性を見る ーーー

あなたは魅了されてしまう
ビューティフルな 男の人,とても見た目がいい
無垢に見える
彼の目は ビューティフルだ
波動(ヴァイブ)も ビューティフルだ

ところが,いざ その男が あなたに自己紹介をして
「私はユダヤ人です」と 言う

そして,あなたはキリスト教徒だとしよう
と,何か たちまちカチリと スイッチが切れる

すると そこには距離ができてしまう
もうその男は 無垢ではないし
それ以上ビューティフルでもない
あなたはユダヤ人について ある観念を持っている

あるいは彼が クリスチャンで あなたがユダヤ人でもいい
あなたはクリスチャンについて 特定の観念を持っている
キリスト教が 過去に ユダヤ人に何をやったか
ほかのクリスチャンたちが 何をユダヤ人にやったか
いかに彼らが いつの世にもユダヤ人を責め苛んできたか ーーー

そして突然,彼がクリスチャンだとわかる
と,何かが たちまち変わってしまう
これが 結論から,先入観から動く 動き方だ
この男を 見ているのじゃない

なぜならば この男は,あなたがユダヤ人は こうだ と 考えているような人じゃないかもしれないからだ
ひとりひとりのユダヤ人は みな違った種類の人間なのだから ーーー

ひとりひとりのヒンドゥー教徒は みな違った種類の人間だ
そして回教徒でも同じこと

先入観から行動を起こすことは 禁物だ
人々を 分類整理することは 禁物だ
誰ひとりとして 分類などされ得ない

あなたは 100人の共産主義者たちに 騙されてきたかもしれない
そこへ,101人目の 共産主義者に会う ーーー

あなたが あなたの心(マインド)の中に 作り上げた
共産主義者というのは欺瞞的だ」とか
その手の 範疇づけを 信じ続けないこと

この人は 違う種類の人間かもしれない
なぜならば,どんな二人の人物も 同じじゃないのだから ーーー


いつであれ あなたが結論から行動を起こすとき
それは 心 (マインド) だ

あなたが〈現在〉の中を のぞき込み
そして どんな観念にも,リアリティーを遮ること
事実を 遮ることを 許さないとき
ただ その事実を のぞき込み
その ひと目から行為するとき
それが 瞑想なのだ

瞑想というのは 何かあなたが 朝やって
それで もういいというような ものじゃない
瞑想とは,あなたが自分の生の あらゆる瞬間 生き続けなければならないような何かなのだ

歩いていても,夢見ていても
坐っていても,話していても,聞いていても
それは 一種の〈空気〉にならなければならない

リラックスした人は その中にとどまる
〈過去〉を 落とし続ける人は 瞑想的なままでい続ける

けっして結論から行動を起こさないこと



(07)終わり・・・(08)へ 続く