saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7話 ーーー 〈無〉に 帰依する (01)


瞑想とは何か ?
というのも
この心経全体が 瞑想の内奥無比なる核心に 関するものだからだ
その中に はいって行くことにしよう


まず 第一に
“瞑想” とは “集中” じゃない
“ 集中 ” の 中には 集中している ひとつの自己があり
そして 集中される ひとつの対象がある

そこには 二元対立がある

瞑想の中には
内側に誰もいなければ 外側にも 誰もいない
それは 集中じゃない
そこに 内と外という 区別は何もない
内は外へと 流れ込み
外は内へと 流れ込み続ける

その仕切り,その境界線
その国境は もう存在しない
内は 外であり,外は内だ
それは ひとつの非二元的意識なのだ

“ 集中 ” というのは 二元的な意識だ

集中が 疲れを生むのは そのためだ
集中すると 疲労感があり
24時間 集中するわけにはいかないのも そのためだ
あなたは 骨休めの休日を取らなくてはなるまい
集中というのは けっしてあなたの本性には なり得ない

瞑想は 疲れを呼びはしない
瞑想は あなたを消耗させはしない
瞑想は 24時間,年中無休のものになり得る

日がな 一日
年がら年中 ーーー
それは 永遠のものに なり得る
それは それ自身で くつろぎなのだ


集中というのは ひとつの行為だ
意識された 行為 ーーー
瞑想とは 意識しない状態
無為の 状態だ
それは くつろぎだ

人は ただ 自分自身の実存の中に 落ちてゆくだけでいい
そして その実存は〈一切〉の実存と 同じものなのだ

集中の中には 段階があり
投影があり,観念がある
集中の中では 心(マインド)は ひとつの結論から機能する
あなたは 何かを や っ て いるのだ
集中は 過去から出てくるものだ

瞑想の中には その背後に何の結論もない
あなたは 特別 何をやっているわけでもない
あなたは ただただ 在 る の だ
それは 何の過去も持たない
それは 過去によって 汚染されてはいない
それは 何の未来も持たない
それは 一切の未来から純潔だ
それは 老子が “為無為 (wei-wu-wei)” と呼ぶもの
無為を通した行為なのだ
それは 禅のマスターたちが 言い続けてきたところのもの
“ 兀然として無事に坐す
春来りて草自ら青し ”ーーー

覚えておきなさい
“自ら (ひとりでに)” だ
何ひとつ なされてはいない
あなたは 草を引っぱり出すわけじゃない
春が来て,草は ひとりでに生えるのだ
その状態
あなたが, 生が その道を行くのを 許す
それを 方向づけようとしない
操作していない
それに どんな規律も押しつけてはいない
純粋な無規律,無礙自在の その状態こそ 瞑想の何たるかなのだ


瞑想は〈現在〉
純粋な〈現在〉の中にある



(01)終わり・・・(02)へ 続く