saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第2章(質疑応答)「トータルであることは至福だ」(03)

最初の質問

(03)

( 身体においてでさえ、我々は 区別している。

下半身は なにか否定すべきもの と されている )

 

ただ、肉体的に 低い位置にあるだけではない。

価値の 上でも、下半身は 低いと 見なされる。

上半身は ただ上部にあるだけではない。

より価値が高い ということを 表している。

 

あなた方は、下半身については やましさを 感じる。

 

もし誰かが「あなたは どこに いますか ? 」と 問われたら、頭を 指差すだろう。

そこに 私はいると −−− 頭脳、 頭、 理知に。

我々は、自身を肉体ではなく、理知を 自分だと みなす。

もし誰かが、さらに我々に詰め寄れば、我々は 自分を 上半身だと認識し、決して下半身だとは 認識しない。

 

下半身は なにか非難されるもの と なっている。

だが なぜだろう ? 

 

身体は ひとつだ。 それは 分けられない。

区分は 存在しない。 頭と足は ひとつだ。

あなたの 脳と あなたの性器は ひとつだ。

それらは 一つの統合体として機能する。

 

なのに セックスを 否定し、セックスを 非難する。

我々は 身体全部を 非難している。

 

罪 という観念が アダムに訪れたのは、

初めて、自分と ほかの動物との 違いを感じたからだ。

そして、セックスは 最も動物的だ。

私は「動物的」という言葉を、どんな避難もなく、純粋に実際的な意味で使う。

当然、セックスは 最も動物的だ。

セックスは 生であり、起源であり、生の根源だからだ。

 

アダムとイブは、セックスを 意識するようになった。

彼らは 外面的に それを 隠そうとした だけではない。

彼らは 意識の内側でさえ、その事実そのものを 隠そうとした。

 

それが、意識マインドと 無意識マインドとの 区別を 作り出した。

 

マインドも また ひとつだ。 ちょうど、身体が ひとつで あるように。

だが、もし 何かを非難すると、

非難された部分が 無意識になるだろう。

あまりにも それを非難し、あなた自身が それを知るのを恐ろしく思うほどに なる。

それが 内側のどこかに存在するのだ ということが。

 

そうやって、あなたは 障害(バリアー)を 作り出した。

あなたは 壁を 作り出した。

壁の 向こうに、あなたが非難する全てを 投げ捨てた。

そして、 あなたは それを 忘れることができる。

が、 それは あり続ける。 あなたに働きかけ続ける。

それ は あなたの 主人のままだ。

それでも まだ、あなたは「それ は もう存在しない」と 自分を ごまかせる。

 

その 我々のなかの 避難された部分が、 無意識になる。

自分たちの無意識が、 我々のものだ とは 決して思わない。

 

あなたは 夜、夢を見る。

 

 

(03)終わり(04)へ 続く