saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第17章「意識の完全なる開花に向かって」(17)

(17)

( この経文 曰く

『礼拝のための花とは何か ? −−−

意識で満たされること』)

 

そして 意識へと花開いてこそ、あなたは受け入れられる。

そのとき初めて、あなたは 神の寺院へと入る −−− 

花を携えてではなく、自分自身という花を携えて。

そのとき、あなたは 一本の花になった。

あなた方は みな、見たことがあるに違いない。

ブッダが 花の上に座り、ヴィシュヌが 花の上に座り ラーマが花の上に座っているのを。

だが、その象徴を理解してはいないようだ。

それらの花は 単純に こう語っている、「これらの者は花開いた人間たちだ。

彼らは深い開花に至った者たちだ」と。

あなた方は 聞いたことがあると思う。

ヨーガでは 七番目のチャクラのことを サハスラルダルカマル −−− 一千枚の花弁の蓮 −−− と 呼ぶ。

それは象徴だ。

 

ハスラーラ −−− 

頭のなかの 七番目のチャクラの上に、一千枚の花弁の蓮。

その七番目のチャクラは 最後のステージ、ピーク、意識のエベレストだ。

 

第一のチャクラは、ムラダーラ −−− セックスセンターだ。

そして最後のチャクラが サハスラーラだ。

セックスは あなたの中で 最も無意識なものだ。

そして、サハスラーラが 最も意識的なものだ。

それらは 両極だ。 我々は セックスセンターの周りに生き、その周りを回っている。

我々がすることは 何であれ、セックスと関わっている。

 

それが どんなに遠く離れた関係に 見えようとも。

お金を稼ぐこと、富を貯えるといったことは 

まったくセックスと関係ないように見える。

だが、それらは関係がある。

富を 貯えれば貯えるほど、セックスすることができる。

セックスできる 可能性が増える。

権力を手に 入れればいれるほど、より多く セックスできる。 セックスできる可能性が 増える。

それを 完全に忘れているかもしれない。

そして、目的が手段になり、手段が目的に なっているかもしれない。 それは また別のことだ。

 

ある人が 生涯、富を貯え続ける とする。

彼は 自分が何をしているのか 完全に忘れているかもしれない。

だが、あらゆる権力の追求は セックスのためだ。

我々は セックスセンターの周りを回っている。

 

そうなって 当然だ。

意識を 広げていかない限り、それは越えられないからだ。

セックスセンターが、最も無意識に根差している センター、最も低いセンターだ。

そのため、最も 深く、 最も 無意識だ。

 

あなたが 意識へと 上昇して行けば行くほど 

セックスから 遠のいていく。

すると、そこには異なるタイプの開花が ある。

全エネルギーが 七番目のチャクラ −−− サハスラーラへと移行する。

そして 全エネルギーが 七番目のチャクラへと 移行する時、それは ひとつの花となる −−− 一千枚の花弁をつけた 花に。

−−− それは 美しい比喩表現だ。

それは 無限というほどの、無数の花弁、花が開いた という意味だ。

 

この経文は ただの象徴ではない −−− 実際、単なる象徴にすぎない 象徴はない −−− それは 事実を 指し示している。

 

 

(17)終わり(18)ヘ 続く