saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,

最初の質問 (11)

 

( 彼は バクタの象徴を使い、愛の道を行く者に 対してではなく、 知の道を行く者への 意味を与える。

ウパニシャッド全部が、 一貫して そうなのだ )

 

象徴は 献身の道を行く者、礼拝者のための ものなのに、与えられた意味は 知の道を行く者のためのものだ。

この経文の中でも また同様だ。

あなたが「自分はそれだ」と知れば、それが 神への敬礼になると、このウパニシャッドは言う。

この一貫していない態度ゆえに、彼は 一貫して自己矛盾し、二重の言葉を 使っている。

彼の中で 二つの世界がミックスされている。

このウパニシャッドは 軽視されていた。

誰も このウパニシャッドを解説した者はいない。

このウパニシャッドは 最も軽んじられた、最も美しいウパニシャッドの ひとつだ。

 

このウパニシャッドを解説するのは難しい。

解説者にも 二つのタイプがあるからだ。

知の道を信奉する者にとっては、その言葉全部が 別の陣営のものだからだ。

また、愛の道を行く者にとっては、その意味全体が前者の陣営のものだからだ。

 

だから この「アートマ・プージャ・ウパニシャッド」の見者は 実際、どちらの陣営にも属さない。

そのせいで、このウパニシャッドは 無視され、解説されないままだった。

 

そこで 第一に、それらは二つの言葉である ということ。

愛には それ独自の言葉があり、知には それ独自の 言葉がある。

それらは 上辺で 出会うことはあり得ない。

それらは対話の中ではなく、一個の人間の中でのみ出会える。

一個の 人間のみが、愛と知が 出会うような境地に達することができる。

が、そういうことが起こるのは 稀だ。

どうして稀なのか ? 

 

なぜなら、あなたが 一つの道で ゴールに到達したなら、どうして別の道を 気にしなければならないだろう。

その必要はない。

あなたは 一つの道を辿って、ゴールに到達したのだ。

 

ラーマクリシュナは 一つの実験を試みた。

彼は この時代に そういう実験をした、唯一の人間だった。

彼は ある境地に到達した。

その後、彼は到達するための道を行くのを止め、

別の道で 前に到達した境地へと 行き始めた。

その道で 達すれば、また別の道というように。

彼は、数多くの道で 最初に達したのと同じ境地に達することができると見い出して 初めて、別の道で 同じ境地に達しようとすることを 止めた。

彼は スーフィーの方法を試した。

仏教の瞑想もやった。ヒンドゥーの道も 試した。

彼は その道に 深く自分を捧げた。

基本的に 彼は 愛の道を行く人間だった。

だが彼は ヴェーダーンタ −−− 知の道から、最初に自分が到達した境地へと 到達しようと試みた。

それは 大変困難なことだった。

献身の道から知の道へ変わることは、それほど簡単ではない。

自分の進む道を 変えれば、すべてが反対になる。

 

彼は、その当時の最も偉大な インドの哲学者のひとり、トータプリから 学んでいた。

 

 

 

(11)終わり(12)へ 続く