saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,

最初の質問 (10)

 

( 彼らは決して解脱や 解放、自由を要求しない )

 

あるバクタが こういう歌を 歌っている。

「どうぞ私を ブリンダバン(クリシュナ誕生の地)の 犬で いさせてください。 ただブリンダバンの 道の埃で いさせてください。 それで 充分です。

そして私は あなたの御足を 永遠に お待ちしています。 ほかに何も いりません」と。

実際、深い意味において、バクタたちは 知の道を行く者よりも 野心的でないように見える。

 

だが、彼らは お互いのあり方を 理解できない。

それは難しい。

彼らを お互い 理解させることはできない。

対話は 不可解に 思える。

なぜなら、 彼らは 違う言葉を話しているからだ。

彼らは 異なる世界の言葉を 使っている。

彼らは 自分たちの言葉に 異なる意味を与えている。

 

バクタは「愛こそが 自由だ −−− 唯一の自由だ !」と言う。

 

知の道を行く者にとっては、知ることが 自由であり、愛することは 自由ではない。

愛は 束縛だ。

あなたが愛の中にある時、束縛の中にある。

一方、 バクタは言う。

「愛は 自由だ。 もしあなたが 愛を束縛と 認知するなら、あなたは愛を まったく知らないのだ」

というように 彼らは 別の言葉を 話している。

そこに 出会いは ない。

 

時たま、稀に 一人の人間が 両方のタイプであるということが 起こる。

それは きわめて稀有な 現象だ。

 

何世紀も何世紀も経て、ある人が 両方のタイプであることが 起こるぐらいだ。

そして その人の 言葉を、あなた方が理解するのは さらに難しくなる。

それは 次のようだ。

バクタは 知の道を行く者(ジニャーニ)の 言葉を理解できない。

ジニャーニは バクタの言葉を 理解できない。

が、もし 一人の人が その両方であれば、普通の人は まったくその人のことを 理解できないだろう。

 

お互いの言葉、 それ自体が 理解するのが難しい −−− そこへもってきて、両者の言葉が ひとつになれば、普通の人が その人を理解するのは 不可能になる。

 

その人は、バクタと ジニャーニの両方の言葉を 理解できる。

が、普通の人には、まったく その人を理解できない。

その人が、 絶えず その人自身と 相反しているように 見えるからだ。

 

彼が 知の道を行く者の言葉を 話すときは いつであれ、彼は 一つのことを話す。

そして、彼が 愛の道を行く者の 言葉を話すときは いつであれ、彼は その反対、 正反対のこと、正反対の言葉を話す。

 

彼は絶えず、自分自身と 矛盾し続ける。

 

彼の話を 聞いていると、ただただ 混乱してしまう。

彼は 何を 言っているのだろう ? 

 

だが、そういうことは 稀だ。

そうしたことが起こると、その人は 完全に誤解されるのが常だ。

この ウパニシャッドは、そういう両方を 兼ね合わせている人間のためのものだ。

気づいていないかもしれないが、このウパニシャッドの 名前そのものが

「アートマ・プージャ −−− 自己礼拝」だ。

それは馬鹿げている ! 

タイトルが 意味を成していない。

矛盾している。 自分を 礼拝する ? 

 

礼拝とは、いつも自分以外の誰かに 対するものだ ! 

が、このウパニシャッドでは、あなたは 礼拝される側だ。

とすれば、 礼拝の意味が 全て失われる。

両方 兼ね合わせたタイプの人間は、パラドックスで 話し続ける。

話すこと全てが ジニャーニと バクタの両方だ。

彼は バクタの象徴を使い、愛の道を行く者に 対してではなく、 知の道を行く者への 意味を与える。

 

ウパニシャッド全部が、 一貫して そうなのだ。

 

 

 

(10)終わり(11)へ 続く