saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,

最初の質問 (09)

( …彼は 傍観者ではない。

彼は 距離をおいて ライラを見ることができない )

 

知の道を行く者は「マジュヌは真理に達することはできない。

彼は いつも幻想の中に住んでいる。

彼が言うことは 何であれ、主観的な感覚だ。

それは 客観的真理ではない」と 言うだろう。

彼らは

「バクタは 自分たちの幻想について、延々と語り続けている。

もし真理を 欲するなら、客観的でありなさい。

愛では 役に立たない。 実際、 愛というのは障害だ。

それは 全てを 色づけてしまうからだ」と言う。

 

サンスクリットの言葉には、ラグ という言葉がある。

ラグとは 執着を意味し、色を 意味する。

あらゆる執着は 対象に色を与える。

それは 投影だ。

知の道を行く者は 言う。

「絶対的に 無執着であれ。

ビートラグでいるのだ −−− 無執着、愛なし、献身を考えないことだ −−− そうして初めて実在に至れる」。

 

こうした 対話が どこまでも続く。

 

あらゆる点において、知の道を行く者は、

愛の道を行く者と 違うからだ。

 

そして私は はっきりと言う。

彼らの言うことは、彼らに 関する限り 正しい。

何であれ 彼らが 自分たちについて言うことは正しい。

が、彼らが 別の道を行く者について 何かを 言い始めたら、間違っている。

 

知の道を行く者が 献身の道を行く者について 何かを語れば、それは 間違いだ。

というのも、献身の道を行く者の 体験は、知の道を行く者の体験とは 全く異なるからだ。

愛について彼らが 知っていることは 何であれ、ひとつのことだ。

 

献身者が愛について知っていることは 何であれ、彼らの それとは全く違うものだ。

献身者、愛の道を行く者にとっては、それは 投影ではない。

愛の道を行く者は「私は もういない。 それなら 誰が投影するというのですか ? 

私には 何の期待も、要求も、願望もない。

願望のない、期待のない、野心のない人間が、どうして その心を投影できますか ? 」と 言う。

バクタは言う。

「私は、神が私の内に降りてこられるように 自分を無に しました。

そして今、 神が入ってこられているのです」

この愛、このコミュニオンは、マインドの 投影ではない。

なぜなら 投影とは、常に 願望を通して訪れるからだ。

だから、 もし 神とのコミュニオンによって  何かを欲するなら、それは 投影だ。

もし あなたが、純粋に神とのコミュニオン以外 何も望んでいなければ、 投影ではあり得ない。

そこで バクタたちは 言った。

「解脱(モクシャ)は いりません。 天国は いりません。 私たちはプンナ −−− 徳など一切欲しません。

天国など いりません。

ただ あなただけが欲しいのです」。

 

バクタは言う。

「もし天国が そこにあり −−− 一方、あなたの御足が ここにあるのなら、私たちは あなたの御足を 選びます」。

 

彼らは 決して解脱や 解放、自由を要求しない。

彼らは 何も要求しない。

 

 

 

(09)終わり(10)へ 続く