saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第17章「意識の完全なる開花に向かって」(02)

(02)

( それは積極的(ポジティブ)な死だ。

そして ポジティブな死は、さらなる生への扉なのだ。

ポジティブな 死とは、何かのために死ぬ ということだ −−− 成長のために死ぬ ということ )

 

一つの段階から消え去り 別の段階へと現れる ということ。

 

人間は、種のままで いることもできる。

そして、多くの人間が成長せずに、己を 越えずに 一つの段階から 消え去り、別の段階へと現れずに、消極的(ネガティブ)に 死んでいく。

 

ニーチェは どこかで こう言っている、「人は自己を超えてこそ人たる」と。

下の段階から消え去り、上の段階に現れてこそ、あなただ。

それは物質に死に、意識に生まれる という絶え間なきプロセスだ。

だが、種は 種であることに満足する。

また、 種であることに満足していられる。

種にとっては、自分が どんなものになれるのかを 想像することさえ難しい。

それを夢に見ることさえ、不可能なように思える。

自分が 何になれるのか、どうして種に夢見ることができるだろう ? 

一本の木になることを 想像することさえ まったく馬鹿げて見える。

どうして 一粒の種が、 一本の木に なれる ? 

たとえ 種のすぐ そばに木があっても 種は、その木も かつては 一粒の種であり 「自分も木になれる」と考えることさえできない。

 

ブッダ 曰く

「私は あなたに真実は与えられないが、夢を 与えることはできる。

私を 見なさい。 そうすれば、あなたの可能性、潜在性が呼び覚まされるだろう。

何かが未来に向かって息づき始めるだろう。

あなたの内側の何かが、自分も そうなれるのだ と、あこがれ始めるだろう」

ブッダは 一本の木だ −−− 

ただの木ではなく、花を咲かせた木だ。

我々は 種だ。

人間を 種だと考えてごらん。

では、花とは 一体何だろう ? 

木として人間を考えた場合、花を つけているとは 一体 どういう状態なのだろう ? 

無論、 それは 意識の花だ。

 

この経文 曰く

『礼拝のための花とは、 何をさすのか ? −−−

意識に満ちること』

 

完全に 意識が覚めている状態 −−− 意識的であることだ ! 

花を、意識を表すシンボルとして 使うことには 多次元的な意味がある。

ただの 象徴ではない −−− 

意識は真実、人間の 内なる花だからだ。

人間が花咲き、自己の 最頂点に達したとき 

突然 パッと 花が咲き始める −−− その花は 意識の花だ。

だが、人間は 今あるままでは ただの種だ。

彼は 意識的に なっていない。 彼は 意識ではない。

 

そのことは 受け入れがたく、実に 侮辱的なことだ。

 

我々は、自分たちのことを 意識的になっていると思っているからだ。

そして、 それが最も致命的な 信仰だ −−− それは 危険で、有害だ。

なぜなら、すでに 自分の意識は 目覚めている と 思っていたら、意識が花開く可能性は なくなるからだ。

もし種が 自分はすでに 一本の木であり、花開いていると思っているのなら、その種が生長する可能性は ない。

種は 完全に自らを欺いている。

 

グルジェフ 曰く

「あなた方は 檻の中にいる。

だが、自分は檻の中に いるのではない −−− それは自分の家だ −−− と信じるようになる」

あなたは 自分の檻を、自分の家だと思い始めるようなやり方で 飾れる。

また、 それを自慢することができ、それを誇りに思うことができ、あなたが つながれている鎖は 装飾品にもなる。

それは あなた次第だ。 そんな風にも解釈できる。

そして そう解釈することは 

ある意味で エゴを非常に満足させる。

そうすれば、その拘束と闘う必要が なくなるからだ。

そうしたら あなたは楽になる。 それは 非常に 都合がいい。

人間の 信仰 全てが便利にできている。

だが、それは 危険だ。

それらの せいで、進化していく可能性が まったくなくなり、完全に 否定されている。

囚人は、自分は 囚人ではなく、もうすでに自由だ と 思う。

そう信じることは とても都合がいい。

そうなると、そこに煩いが ないからだ。

だが そうしたら、囚人は 決して自由になれない。

だから グルジェフは こう言った、「自由のために必要な第一歩は、今の自分は 囚人だ という屈辱的な事実を 認識することだ −−− そうして 初めて、成長が可能だ」と。

 

この経文で、私が あなた方に 一番始めに言いたいことは、あなた方の意識は 目覚めていないのだと、完全に 知って欲しいということだ。

それが 目覚めへの 最初のステップだ。

 

あなた方の意識は 全然 目覚めていない。

あなた方は 無意識の生を 生きている。

あなたの行為は 何であれ、ロボットのようで機械的だ。

 

たとえば、あなたは 私の話を聞いている。

私の話を 聞いてはいるが 

自分が 聞いている という 事実に 気づいていない。

今、私が そう言ったあとで その事実に 気づくことはできる。

だが、それ以前に 気づくことはない。

 

一瞬あなたは、自分は話を聞いている のだ と 気づく。

が、 それは 一瞬だけであり、また無意識へと 入り込む。

 

だとすれば、あなたが 私の話を聞いていても 

意識を持った存在として 聞いているのではない。

 

あなたは 機械のように 私の話を聞いている。

何が 違う ? 

たとえば、

あなたが 私の話を聞いている と、あなたは 私のこと、 話し手 を 意識する。

あなたは 聞き手を 意識していない。

あなたの意識は  一方通行だ。

矢は 話し手に向かって 放たれている。

そして、あなたは ただ 影の中にいるにすぎない。

光は 話し手に焦点が 合わされている。

あなたはといえば、闇のなかにいる。

 

一瞬、私が 何か それについて 言うと、あなたは 意識的になる。

 

だが、聞き手に 意識がいった瞬間、 話し手の方に無意識になる。

 

もしあなたが 両方を 意識できるようになれば、もしあなたが、二本の矢のように 二方向に向かう意識を 持てれば −−− 話し手と聞き手を 同時に意識できれば、 あなたの意識は 目覚めているということだ。

 

だが私が「あなた方の意識は覚めていない」と言うのは、たいてい、あなた方の意識は目覚めていない時が 多いということではない。

時には 意識が目覚めている瞬間もある。

だが、ごく わずかだ。

それらの瞬間は ただ可能性を示すものであり 

現実に なったわけではない。

 

それは ちょうど、あなたが ジャンプして 再び 地上に戻った時のようだ。

あなたは 一瞬、引力に 打ち勝つことが できる。

そして、再び 引力の影響下にある。

 

 

(02)終わり(03)へ 続く