saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第17章「意識の完全なる開花に向かって」(03)

(03)

( それは ちょうど、あなたが ジャンプして 再び 地上に戻った時のようだ。

あなたは 一瞬、引力に 打ち勝つことが できる。

そして、再び 引力の影響下にある )

ちょうど 次のようにだ。

時々、我々は ある状況の中で、無意識から 飛び出す。

一瞬のあいだ、我々は 引力から抜け出す。

だが、それは 本当に 引力から解き放たれたわけではない。

引力は あらゆる瞬間に働き 

再び あなたを地上に 引き戻すからだ。

だが 一瞬、あなたは自由を 感じることができる。

そして再び 地上に舞い戻る。

 

ある危険が迫っている 情況の中で あなたは 意識的になる。

誰かが あなたを 殺しにやって来ると する。

すると、突然 あなたは意識的になる −−− その殺し屋だけではなく、殺される者、自分自身に対しても。

 

そのとき、意識は 二本の矢のように 

二つの方向に 向けられている。

だが それは 一瞬だけで、また地上に 舞い戻ってしまう。

 

時々、深い愛のなかで、あなたは 無意識から飛び出す。

その時、あなたは 自分の恋人、愛する人だけでなく、自分自身にも 意識的になる −−− だが それも束の間のことで、再び無意識に戻ってしまう。

 

突然、何かのアクシデントの中で、何か 深く心を動かすようなことを体験する中で、人は 意識的になる。

が、それは ごく短い瞬間であり、指で数えられる程度だ。

それらの体験は、あなたも 意識的になれる という可能性を示すに すぎない。

 

通常、我々は 一種の機械として生きている。

実際、機械として生きることは 便利だと感じている。

機械として生きることは、とても心地いい。

機械的に 一つのことをしていると 

より効率的に それができるようになる。

あなたは 心配する必要がない。

自分の身体、自分のマインドが、一つの機械として働いてくれる。

それは 有能だ。 意識しないでいい、ということは便利だ。

というのも、意識する ということは、自分の周りに ごくごく敏感になることであり、それは痛みをもたらすからだ。

だから 覚者であることは、ただ至福だけではない。

 

ブッダ自身に 関する限り、覚者であることは至福だ。

彼は 至福の絶頂を体験するに至った。

だが それと同時に、非常に高い 犠牲を払わねばならない。

というのも、余りに敏感になり、周りのすべてが 彼に痛みを与えるからだ。

彼は 人の苦しみゆえに 苦しむ。

あなたが 一人の乞食に 出会うとする。

あなたは無意識に彼の横を 通り過ぎる。

そこに 何も問題はない。

そういう時、鈍感であることは とても都合がいい。

もしあなたが 意識的であれば そんなに都合良くはいかない。

そういう状況に遭遇すれば、あなたは 自分も乞食が社会の中に存在することに 加担しているのだと、覚るに違いない。

 

あなたは この醜い社会の 一部だ。

この世界に存在する全て、ベトナム戦争であろうと、ヒンドゥー教徒イスラム教徒の間の暴動であろうと、貧困であろうと、この世界に存在する物事は 何であれ、あなたに責任がある。

もし あなたが意識的になれば あなたに責任がかかってくる。

そうなれば 逃げることは難しい。

それが 意識的になった人間が 支払うべき代価だ。

だから、ブッダが ただ至福のみに生きているとは 決して考えてはならない。

誰も、至福のみに生きることはできない。

誰もが その代価を 支払わねばならない。

その人の体験が 偉大なるもので あればあるほど 代価も大きくなる。

 

 

(03)終わり(04)へ 続く