最初の質問
(15 終回)
それを 解脱(モクシャ)と言ってもいい −−− 何とでも言うがいい。
名前などは どうでもいい )
それには 二つの方法がある。
アダムは、自分のセックスを 意識するようになった。
その時、彼は それを抑圧できた。
常に 内側に隠されている動物がいることを 知りながら、常に そうではないふりをし、絶えざる苦悩のなかで セックスと闘うことができた。
それが 苦悩だ。 そして、人は どこへもまったく たどり着くことなしで、何生も 水平に動き続けられる。
その轍は、同じ繰り返しの 円だからだ。
それゆえ、我々は それを輪(ホイール)と言う −−− 反復的な円だ。
だが、その輪から 飛び出すことは可能だ。
そのジャンプは 抑圧によってではない。
もっと深く 知ることによってだ。
ゆえに私は
「あなたが 禁じられた知恵の木の実を 食べてしまったら、今度は 木すべてを食べなさい」と言う。
それが 唯一の道だ。
さあ、その木 すべてを食べなさい !
一枚の葉っぱでさえ 残してはならない。
あとかたもなく 木を食べ尽くす。
全部 食べてしまいなさい !
そして初めて、あなたは 知ることから自由になることだろう −−− それ以前では決してない。
そして私が「その木すべてを食べなさい」と言うのは、「意識的になる、完全に意識が目覚める」ということだ。
断片的な意識が 問題だ。
完全に無知で あるか、完全に意識が覚醒しているかの どちらかだ。
全一性は 至福だ。 完全に 無知でありなさい。
そうしたら、あなたは 至福の内にある。
あなたは それを意識しないだろう。
が、あなたは 至福の内にある。
ちょうど あなたが深い眠りの中 −−− 夢さえ見ず、マインドの動きがない状態で 眠っている時のように −−−
あなたは至福のなかにある。
が、それを感じることはできない。
朝になって「夜の眠りは 全く喜びに満ちていた」と あなたは言えない。
眠っていた時、その至福を感じていなかった。
あなたが 眠りから醒めて、初めてそう感じられた。
認知が起こり、意識が入って初めて、「夜は実に喜びに満ちていた」と 言えるのだ。
まったくの無知か、あるいは可能な限り 完全に知っているか。
トータルであることで、至福が そこにある。
トータルであることは 至福だ。
だから、木を食べなさい。 根も すべて食べてしまいなさい。
そして、意識的で ありなさい。
それが 覚者、ブッダ −−− 光明を得た者 という意味だ。
彼は、その木すべてを 食べてしまった。
そうすれば、もう誰も 意識的な 者 はいない。
ただ、意識 だけが存在する。
その、ただ 意識 だけが存在する状態、それが 再びエデンの園に入る ということだ。
再び、古い道を 見つけることはできない。
それは永遠に 見逃すことだ。 が、新しい道を見い出だせる。
再びエデンの園に入ることができる。
すると実際に、悪魔がアダムに約束したことが 成就されるだろう。
あなたは 神のようになる。
悪魔の言うことは、ある意味で正しかった。
もし知恵の木の実を食べれば、神のようになるだろう。
我々の現状のマインドでは、それは 想像できない。
我々は ちょうど地獄にいるからだ。
悪魔の 誘惑のせいで、我々は地獄にいる。
我々は、まるで 二つの間で どっちつかずで、常に分裂しているような状態だ −−− 苦悩のなか、辛い状態に。
それは 悪魔が我々をだまし、アダムを だましたかのように思える。
だが、それが すべてではない。 歴史は まだ完結していない。
あなたは それを完結させられる。
そうして初めて、悪魔の言ったことが すべて正しかったか、そうでなかったかが判定できる。
だから、 その実を すべて食べるがいい。
すると、 あなたは 神のようになるだろう。
完全に意識的になったら神となる。 彼は 人間ではない。
人類は 一種の病気だ −−− 人は 安らいでいない。
常に 不安を抱えている。
動物のようなら、あなたは健全だろうし、神の如くなら、また健全であるだろう −−− あなたが全体なのだから、全体のなかに あるから健全なのだ。
英語の「holy (神聖な)」という言葉はいい。
それは 純粋さに あふれている、 という意味だけではない。
本当は、全体で あることを意味している。
全体に ならない限り、あなたは 神聖ではあり得ない。
だから 全体に なりなさい !
二つのタイプの 全体性がある。
一つは 動物のそれであり、 もう一つは 神のそれだ。
第2章 --- 最初の質問(15) 終わり・・・
二番目の質問 (01)へ 続く