この経文 曰く
『絶えず内なる輝きに、内なる光に、内なる無限の果実に統一していること、それが礼拝の前の沐浴だ』
では、どうやって 入る ?
どうやって 統一する ?
それには、二、三 の 事がある。
一つ、あなたが「光がある」と言うとき
いつも 何を意味しているのか ?
私が「部屋には明かりがついている」と言うとき
どんなことを 言っているのか ?
私が言うのは「見ることができる」ということだ。
光 は 絶対に 見ることはできない。
光っている 対象物だけが 見えているのだ。
あなたは 壁を見る、光 ではない。
あなたは 私を見る、光 ではない。
光っている対象物を 見ている。
決して 光 そのもの ではない。
光は 余りにも微妙で、見えないものだ からだ。
光は 粗雑な現象ではない。
光が ある、と 推測することしかできない。
それは ひとつの 推測であって、認知ではない。
それは ただの 推測にすぎない !
私には あなた方が 見える。
だから、そこには 光がある と 推測する。
光がなくて、どうして 見ることができるだろう ?
今まで、光を 見た者は 誰もいない −−− 誰もだ !
誰にも 光を 見ることなど できない。
しかし我々は「私は光を見た」という言葉を使う。
が、それは「私は 光なしでは見られないものを 見た」ということだ。
あなたが「暗くて光がない」と 言うのは
どういう意味だろう ?
それは「もう物が見えない」ということだ。
物が 見えなければ、光が ない と推測し
物が 見えれば、光が あると推測する。
光の存在は、外側から、外の世界からでさえ
ひとつの推測だ。
そして、人が 内に 入らなければならない時、人が内に入る 用意があるとき、光 という言葉で 何を意味しているのだろう ?
もしあなたが 自分自身を 感じることが できれば、自分自身を 観ることが できれば、それは 光が そこにある ということだ。
それは 不思議だ。
が、我々は 決して それを考えたことがない。
部屋全体が 暗ければ、何が あるかは 言えない。
が、一つのことは 言える。
あなたがいる、ということ。
どうして ? 自分自身を 見ることは できないのに −−− 。
部屋は まったく闇の 状態だ。
何一つ 見ることは できない。
が、ひとつのことに関しては、あなた は 確かだ。
それは あなた自身の 存在だ。
証拠など 必要ない。 何の光も要らない。
あなたは 自分が存在する と 知っている。
あなたは 自分自身の存在を 感じている。
微妙な、内なる輝きが そこにあるに 違いない。
我々は それに気づいていないかもしれない。
我々は それに対して 無意識、 あるいは
ごく かすかな意識しか ないかもしれない。
それでも、それ は そこ にある。
それに気づくには、あなたの注目を 内側に向けることだ。
(14)終わり…(15)へ 続く