saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第11章 : 光、生命、そして愛 (14)


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この経文 曰く

『絶えず内なる輝きに、内なる光に、内なる無限の果実に統一していること、それが礼拝の前の沐浴だ』

 

では、どうやって 入る ?  

 どうやって 統一する ? 

それには、二、三 の 事がある。

 

一つ、あなたが「光がある」と言うとき 

いつも 何を意味しているのか ? 

私が「部屋には明かりがついている」と言うとき 

どんなことを 言っているのか ? 

 

私が言うのは「見ることができる」ということだ。

 

光 は 絶対に 見ることはできない。

光っている 対象物だけが 見えているのだ。

 

あなたは 壁を見る、光 ではない。

あなたは 私を見る、光 ではない。

光っている対象物を 見ている。

決して 光 そのもの ではない。

光は 余りにも微妙で、見えないものだ からだ。

光は 粗雑な現象ではない。

光が ある、と 推測することしかできない。

それは ひとつの 推測であって、認知ではない。

それは ただの 推測にすぎない ! 

 

私には あなた方が 見える。

だから、そこには 光がある と 推測する。

光がなくて、どうして 見ることができるだろう ? 

今まで、光を 見た者は 誰もいない −−− 誰もだ ! 

誰にも 光を 見ることなど できない。

しかし我々は「私は光を見た」という言葉を使う。

が、それは「私は 光なしでは見られないものを 見た」ということだ。

あなたが「暗くて光がない」と 言うのは 

どういう意味だろう ? 

 

それは「もう物が見えない」ということだ。

物が 見えなければ、光が ない と推測し 

物が 見えれば、光が あると推測する。

 

光の存在は、外側から、外の世界からでさえ 

ひとつの推測だ。

そして、人が 内に 入らなければならない時、人が内に入る 用意があるとき、光 という言葉で 何を意味しているのだろう ? 

 

もしあなたが 自分自身を 感じることが できれば、自分自身を 観ることが できれば、それは 光が そこにある ということだ。

それは 不思議だ。

が、我々は 決して それを考えたことがない。

 

部屋全体が 暗ければ、何が あるかは 言えない。

が、一つのことは 言える。

あなたがいる、ということ。

どうして ?   自分自身を 見ることは できないのに −−− 。

 

部屋は まったく闇の 状態だ。

何一つ 見ることは できない。

が、ひとつのことに関しては、あなた は 確かだ。

それは あなた自身の 存在だ。

 

証拠など 必要ない。 何の光も要らない。

あなたは 自分が存在する と 知っている。

あなたは 自分自身の存在を 感じている。

 

微妙な、内なる輝きが そこにあるに 違いない。

我々は それに気づいていないかもしれない。

我々は それに対して 無意識、 あるいは 

ごく かすかな意識しか ないかもしれない。

それでも、それ は そこ にある。

 

それに気づくには、あなたの注目を 内側に向けることだ。

 

 

(14)終わり…(15)へ 続く