『人間は神に何を捧げられるか ?』(15)
一人の画家が、その木の脇に 立っている。
彼にとっては、その木は 緑に見える。
画家が 一本の木を見る時、その木は ただの緑ではないことを、あなた方は知っているだろうかと、私は思う。
緑には、何千ものタイプがあるからだ。
普通、あなたが木を見ると、全ての木が緑に見える。
しかし、二つとして 同じ緑は存在しない。
二つの緑は 二つの色だ。
全ての緑に、それ独自の 緑がある。
だから 画家にとっては、単純な緑ではない。
それは、A緑、B緑、C緑だ −−−
多様な色合い、多様な 個性が ある。
悲しみのなかにある恋人、最愛の人を亡くした恋人は
まったく木を見ないかもしれない −−−
その緑は とても悲しく見え、本来の色合い、風合いとは 違うように見えるだろう。
彼には、その木の膚合いを 感じられない。
また感じたとしても、それは木の膚合いではなく、恋人の身体の 感触を思い起こさせるものとなるだろう。
そして一人の子供が そこで遊び、老人が そこで死んでいく −−− 彼らは一つの実体を 見ているのだろうか ?
彼らの感じ方には 差異がある。
それぞれ 異なる木が そこに成長し
異なる木が 存在している。
それなら、シャンカラが 木を 全然見ないで “それ” だけを見る、ということは不可能ではないだろう ?
木の膚合いではなく、木の緑ではなく、恋人達の悲しみではなく、子供の遊びではなく、死んでいく男の悲哀でもなく −−− 何かを ?
木を全然見ないで “それ” だけを 見ることが
シャンカラにできないことではないだろう。
すると、木は透明になってしまう。
新しい見解では
木は消え去り、ブラフマンが 顕になる。
そのことが、私が「見なさい、見い出しなさい、あらゆるところで “それ” に徹するのだ」という意味だ。
そして、あなたが あらゆるところで “それ” を感じ始める時、あなたのマインドは 動けなくなる −−−
相対するものが 存在しなくなったからだ。
すると、捧げるということが起こる −−− その時初めて !
あなたは 存在し、与えたことになる。
あなたは、あなた自身を 与えることはできない。
自分自身の マインド しか 与えられない。
あなたは マインド を 取り去ることができる。
あなたは “それ” の 内に ある。
だが、マインドは そうではない。
マインドが “それ” の 内に あることは できない !
あなたは 自由だ。
選択は あなた に任されている。
それは あなた の 責任であり、誰の責任でもない。
責任は あなた に かかっている。
だから 宗教的で あろうとなかろうと
それは あなた の 決断による。
だから、いらないことに 首を突っ込まないこと −−− 神が 存在するか否か というような。
それは あなた が 決めることだ !
神が いるか否かを 議論し続けるのは、無意味だ。
それは あなた の選択だ。
神は 存在しない と言うことはできる。
だが そう言うことで、あなたは より大いなる真実を 否定し、また、その方向に向かって 扉を開く ことになる。
神は 存在する と 言うこともできる。
そして そう言うことで、より大いなる真実に向かって 扉を開くことになる。
それは実証できない −−− 神が いるかいないかは。
それは、科学的な事実として 実証できない。
というのも、もし それが実証されれば
自由が なくなるだろうから。
すると、捧げることが できなくなる。
もし そのことが、他のものと 一緒で、世俗的な 一つの事実となれば −−−
月や太陽や 地球のような、一つの事実に なれば −−−
一つの常識、客観的事実と なってしまえば、あなたには 選択する自由が なくなってしまう。
だから 神は、科学的な事実には 決してならない。
神が いるか 否かは、実証されない。
少なくとも、次のことだけは言える。
もしあなたが 神を選択すれば、あなたは 別人になる。
もしあなたが 神を選択しなければ、またしても
あなたは 別人になるだろう。
もし あなたが 神を選択しなければ
自分自身に対して地獄を作り出す。
もし あなたが 神を 選択すれば
エクスタティックな存在を 作り出せるだろう。
彼 は 問題ではない。
事の顛末は、あなたの 選択の結果だ。
神がいる、いない、と 考えることは無意味だ。
それは 議論にすら 値しない。
根本的で 意味のあることは、どちらかを選択することで、あなたが違う人間になる ということだ。
選択しないことで、再び
あなたが 違う人間になる ということだ。
そして それは、あなた次第だ !
(15)終わり(16)ヘ 続く