saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 1」by OSHO (第9章 14)

『人間は神に何を捧げられるか ?』(14)

 

ウパニシャッド 曰く

『この世界を通して、あらゆる ものごとを通して、あなたのマインドを “それ” ヘ 捧げなさい』

 

いかなる障害も 作り出しては ならない。

相対するものを 作り出しては ならない。

それが何であろうと  “それ” だ。

すると、本当に 奇跡が起こる。

 

私が「悪を通して 善を見なさい」と 言う時

悪は 消え去ってしまう。

私が この世界を通して  “それ” を見なさい という時

この世界は 消え去る。

それは 透明になり、そしてただ  “それ” が留まっている。

世界は そこには存在しない。

 

だが我々には、そこに存在している  “それ” を

まだ 知ることができない。

 

世界は 消え去ってしまう。

だから シャンカラは「世界とは幻想だ」と語った。

幻想、マーヤとは

「世界が存在していない」という意味ではない。

それは「世界とは実在ではなく、ただの透明な世界」という、ただそれだけの意味だ。

もしあなたが 奥深くを 見ることができれば

ブラフマンが 明かされ、世界は 消え去ってしまうだろう。

もしあなたが  “それ”  を 見れば

世界は まったくの 実在に なる。

この世界の現実が 今のように なったのは

あなたが実在を 見い出せないからだ。

 

そしてあなたが 実在を見い出した時、世界は 消え去る。

それは、この世界から家が消え、国家が消え、道がなくなる ということではない。

そういうことではない。

 

シャンカラが「世界は幻想であり、“それ” が あからさまになった時、消え去る」と言うのは、夢のように消え去ってしまう、ということではない −−− 

そうではない ! 

 

世界は まったく違う意味で消え去るだろう。

隠されていたものが 顕になった時、全体が 顕になった時、

世界は 消えてしまうだろう、ということだ。

意識の あり方が 変わるのだ。

あり方 全てが変わる。

新しいパターンで、あなたは 違う見方を し始める。

 

同じ 一本の木でも、樵が その木を見るのと、絵描きの 捉え方や感じ方は 違う。

樵にとっては、その木は まったく緑ではないように  見えるかもしれない。

彼は 木材としての木、木の膚 −−− 

その木が、家具として使えるかどうかに 関心がある。

そのマインドには 一つの 感じ方(ゲシュタルト)が ある。

そういう感じ方、パターンにおいては

木は まったく緑ではないかも しれない。

彼には、その木の緑が 目に入らないかもしれない。

 

 

(14)終わり(15)ヘ 続く