(…目を閉じ、この“私”というものが どこにあるのかを見い出そうとする。
肉体の中? マインドの中?
“私”は どこにあるのか?
開かれたマインドで 入っていきなさい。)
ただ、 “私” が どこにあるのか を見つけ出す。
ちょっと、あなたが車に座っている時、あるいは ベッドに横になっている時、いつでもいい、あなたが 目を閉じる少しの時間があれば、目を閉じなさい--- そして ただ一つの問い--- この “私” とは どこにあるのか?
それは どこにあるのか?
私は どこにあるのだろう?
ラマナ・マハリシは、それを一つの瞑想にして与えた。
彼は それを「Who am I ?(私は誰?)」と 呼んだ。
ブッダは、それでは駄目だ と言っていた。
というのも、あなたが「私は誰?」と 言う時、すでに 自分というものが 存在することを前提としているからだ。
そうなると、それは 問われることはない。
もし 唯一の問いが「私は誰?」というものなら「私は存在する」ということで、すでに決着がついている。
あなたは最初から「自分は存在する」と 仮定している。
そして それから「私は誰?」という問いを発している。
その “私” は、実際には問われていない。
仏教徒の瞑想は「私は誰?」ではなく「私はどこにあるのか?」だ。
心の内を 隅から隅まで探し、開かれたマインドで探索しても、自分 は どこにも見い出せまい。
あなたは “私” というものではなく、静寂なる存在 を見い出すだろう。
そして それが難しいと 思ってはならない。
そうではない!
たとえ、あなたが ここで目を閉じて「“私” というものはどこにあるのか?」と 探してみても、見い出せないだろう。
あなたは、他の多くのものを見い出すだろう。
自分の心臓が 鼓動を打ち、自分の 息があるだろう。
マインドに浮かんでいる 多くの思考を見い出すだろう。
あなたは 多くのものを 見い出すかもしれない。
が、どんな “私” も、どんなエゴも 見い出すことはあるまい。
ブッダは、エゴとは 集合的な概念に過ぎない と言う--- ちょうど「社会」「国家」や「人類」と言うのと同じだ。
あなたはどこにも、それらを 見い出せない。
我々が ここに座っている。
我々は それをクラスと呼ぶことができる。
が、それを 見い出すことはできない。
もし我々が それを探そうとすれば、クラスではなく、多くの 個人を見い出す。
グループ というのは、見い出せない--- ただ 個人だけだ。
「グループ」とは、集団のための 名前だ。
我々は、沢山の木が生えているところを 森と言う。
だが、森というものは 存在しない---
ただ多くの、多くの、多くの木があるだけだ。
そこであなたが 森の中に入れば、多くの木を 見い出す。
そして 森は消え去る。
私 というのは、ただの集合的な名前だ。
あなたは 一つの グループだ。
仏教徒は それを サンガ--- 混ぜ合わさったもの、集合的なもの という言葉を使った。
あなた というのは “私” ではなく、多くのものだ。
内側へ 入りなさい。
その “私” を 探しなさい。
ブッダ曰く
「“私” を 信じてはならない。
内側へ入るがいい。
自分 を 探しなさい。
内側を のぞき込みなさい。
探し出すのだ」
すると、“私” というものは 決して見つからない。
三番目の次元においては、非実在性、無我が 存在する。
「自分は ない」ことが わかったら、人は静かになる。
静かであることが 起こった。
あなたは 不安を感じていられない。
あなたは 動揺した状態であることはできない。
もし エゴが なければ、あなたは内なる雑音の鳴り響いている状態の中にいることはできない。
それらの ショー 全ての幕が閉じられる。
が、我々は 何をしているのだろう?
あらゆる瞬間に、我々は その “私” に 餌を与えている--- “私” が もっと強くなるように、もっとエネルギーを持つように、“私” が もっと焚きつけられるように。
我々は、あらゆる瞬間に、“私” を 支えている。
“私” というのは 人間が作り出した 概念だ。
だがそれは支えられ、維持される。
あなたは “私” が存在する と信じ続け、その信じることが もっと楽に、もっと楽になるような状況を作り出せる。
が、それは信仰だ。
それは 真実ではない。
誰もが エゴの信者だ。
…07に 続く
「究極の錬金術 Ⅱ」古代の奥義書 ウパニシャッドを語る
(講話) OSHO
(翻訳) スワミ・ボーディ・イシュワラ
(発行) 市民出版社