saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術」翻訳 : スワミ.ボーディ.イシュワラ

「相反するものが互いに補い合う」 (09)

(…誰かが あなたを侮辱した瞬間

それが できるかどうか、見ていなさい )

 

怒りは、新陳代謝の中で 作り出されている。

それを越えてまで 泳げるかね ?

闘う必要はない ! 

だから私は、その違いは 微妙だと言う。

川岸に立っていては、その違いは感じられない。

川の中に入って 両方体験しない限り  違いは感じられない。

 

あなたは 岸に立っている。

そして誰かが 川と闘っている。

誰かは 川と戯れて 上に遡る。

岸から、どんな違いを見ることができるだろう ? 

たった ひとつのことだ。

一人は 深刻で、もう一人は 遊び心でいる −−− 

他に 何も変わらない。

 

恐怖の中にいる人、恐れている人、闘っている人は  深刻だろう −−− とても深刻だ。

どうして そんな彼に、笑うことができる ? 

どうして そんな彼に、遊ぶことができるだろう ? 

もし流れが 彼を押し流せば、彼は 敗北を感じるだろう。

 

流れと戯れている者は、まったく深刻ではない。

彼は 笑うことができる。

彼は 川とともに 笑うことができ、波を見て ともに笑うことができる。

もし流れが 彼を押し戻しても、彼は 敗北を感じないだろう −−− 彼は再びやってみる −−− 彼は 深刻ではない。

むしろ、川が 押し戻すということで、川を愛し始めるだろう。

彼は 川を愛し始める。

その違いは 内側のものであり、質的なものだ。

 

抑圧は 深刻な病気だ。

そして、自分自身を変容することは 一つの遊びだ。

それは 全然 深刻ではない。

それは 真面目なことではあるが、深刻ではない。

それは 真正であるが、決して 深刻ではない。

遊びの質は 常にそこにある。 まさに 真髄そのものだ。

肯定的で あることで、あなたは内側に、何かを作り出している。

外側とは、単なる 一つの機会にすぎない。

内側の 創造こそが 大事だ。

主眼点は 他にある。

 

それは 川と闘うことではない。

 

主眼点は 上昇することだ。

 

 

(09)終わり(10)へ 続く