saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術」by OSHO,(03) 翻訳 : スワミ.ボーディ.イシュワラ

「無意識との出会い」(03)

 

あなたの全面性、あなたの本能の全て、あなたの抑圧 全て、あなたの生体を構成しているもの全て、あらゆるもの −−− それは この生だけのものではなく、あなたの全ての生が −−− 突如として 明かされる。

隠されていたというよりも、あなたが 気づいていなかった新しい世界へ 放り出される。

それは そこにあった。 が、あなたは 眠っていた。

また、あなたの意識は 余りにも狭くなっていて それは 見えなかった。

あなたの意識は、ちょうど松明のようなものだ −−− 狭い範囲しか照らせない。

あなたが 松明を持って暗闇の中に入っていく。

あなたは 明かりを持っている。

その光は 狭い範囲しか照らせず、集中した光だ。

それで何かを 見ることはできる。

が 他のところは、全て暗闇の中に 取り残されたままだ。

私が「無意識のものが 何も残っていない」と 言うのは、集中しない意識、一つの対象に限定されないという意味だ。

集中した意識とは、常に 何か見るものを選び、多くのものを見ない という選択をする。 それは 選択だ。

そこで、それに似たようなものを使って説明すると ちょうど松明のようなものだ。

狭い範囲しか 照らせない。

一つの所は とても明るくなる。

が、他の所は 全て暗闇の中にある。

それが 我々が普通、精神の集中を通してしていることだ。

 

あなたが精神を 集中すれば するほど  無意識と出会う確率は 少なくなる。

そうすれば、多くの物事を知らずにいる という代償を払って、とても はっきりと何かを知ることができる。

そのために、専門家は徐々に、ただ無知になっていく。

全世界に 無知になっていく。

彼らは ある一つの物事を もっと良く知るために マインドを狭いものにしているからだ。

だから、専門家と呼ばれる人は「より少ないことを、より多く知っている人」と言われるのだ。

そして究極的には、彼の知っていること 一つだけに焦点が当てられて残り、他の全てに対して無知という代償を払うことになる。

それが 精神集中の働き方だ。

精神集中をしても、決して無意識と出会うことはない。

瞑想を通してのみ、無意識と出会える。

それが 瞑想と精神集中の違いだ。

瞑想とは、マインドが 松明としてではなく、明かりのように働くことだ。

その周りの全てが 光輝く −−−

あらゆるものが。

それは 狭い範囲のものではない。

光は 拡散する。

それは 一方向に動くものではない。

それは あらゆる方向に 同時に動く。

だから、全体が 光輝くのだ。

 

(03)終わり(04)ヘ 続く