saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 「 浄土楽園 」 (06)

 

 仏陀は 訊ねる

「スブーティよ

おまえは、私がディーパンカラから何かを学んだと思うか ?」

スブーティは言う

「そうではありません、 おお世尊よ」

 

なぜなら、学ぶべきものなど 何もないからだ

それは仏陀が ディーパンカラに対して 恩知らずだ ということに なるのだろうか ? 

いや、 まったく ちがう

彼が光明を 得たとき、その最初の感謝は ディーパンカラに 向けられていた

ずっと昔に 無限へ消え、 後には 痕跡すら残されていない ディーパンカラに ーーー

彼は 仏陀の記憶のなかに存在するだけで、そのほかの どこにもない

 

ディーパンカラについては どんな聖典もない

たぶん当時は 聖典が 書かれなかったのだろう

ほかに 彼についての言及はない

仏陀が 唯一の典拠だ

三千年が 過ぎ去り、ディーパンカラについて 何かを知っている者は 誰もいない

だが、仏陀が 光明を得たとき

その最初の謝意、 最初の 感謝は ディーパンカラの方へ 向けられていた

 

なぜか ? 

それは彼の 臨在(プレゼンス)の なかでこそ「ブッダに なる」という願望が 情熱になったからだ

彼の 臨在のなかでこそ、ブッダになりたい という大欲が 生じた

彼の 臨在のなかでこそ、ゴータマの芽は 花になる という夢を 見はじめた

彼の 臨在のなかでこそ、その夢は 花開いた

さまざまな 妨害や障害を 落とすには 三千年かかった

が、 永遠なる時間のなかでは 三千年など 何であろう ? 

それは とるにたらない・・・ただ、 つかの間だ

 

なぜ仏陀は スブーティに訊ねているのか ? 

 

仏陀から学ぶべきものは 何もない、と スブーティが理解するようにだ

仏陀自身、ディーパンカラから 何も 学ばなかった

「だから、スブーティよ

私から学ぶものは 何もない

私と 共に いることだ

学ぶという観点から ものを考えないことだ

学ぶという観点から 考えた瞬間、 おまえは私と 共にいない 」

 

ここにも、二つのタイプの 人たちがいる

弟子と 学生だ

学生とは 何かを学ぶことを 求めている者たちだ

彼らは、何かを かき集めるために、ここにいる

自分が もっと博識になることが できるように

自分が これを知っているあれを知っている と 自慢できるようにだ

彼らは、ダイヤモンドが 手に入るというのに、色つきの石を 集めているだけだ

 

弟子とは、知識(ノリッジ)に 関心をもたず、存在(ビーイング)に 関心をもつ者だ

他のどんな理由や動機のためでもなく、ただ ここで 私と共に在ることに関心をもつ者だ

彼のハートは 感動した、彼の夢は 花開きはじめた

大きく強烈な願望が 彼の内側に 湧き上がっている

 

 

(06)終わり・・・(07)へ 続く